Book Title: Bhava And Svabhava Author(s): Publisher: View full book textPage 8
________________ ダルマキールティの「本質」論 ばらばら・無関係であるならば、推理は全く成り立たないか、あるいは存在物とは何 の関わりももたぬ、単なる概念内の出来事にすぎないと認めざるを得ないであろう。 このように推理論との関係から Dharmakirti の存在論・認識論を考えるとき、彼は どのような立場をとるであろうか。この点を次に確認してみたい。 <<1.21 概念的認識の生成と現象(bhava) >> 実に観念は、それ以外[の一切]と異なる諸存在物(padārtháh, = bhavah) を根拠として生じてくる概念的なものであり、[観念]自身の「無限の過去から の]潜在印象の本性に基づいて[全く] 異なるこれら(諸存在物)の姿を覆い隠 して、[それらの] 顕現を区別なき同じものとして、「観念]それ自身のものと して付託し、それら(一定群の諸存在物)を混合してまとめ示す。そしてそのよ うにそれ(ら諸存在物)の顕われをもってこれ(観念)が顕現するということが、 同じひとつの原因や結果をもつ点で他(異類)とは異なる諸存在物(同類)とそ のような観念の「原因である] 潜在印象の本性なのである。 - これ(観念)は、[観念]自身の姿によって他(諸存在物)の姿が[覆い隠さ れる]というように、「それによって覆い隠される」のであるから、覆い隠すも の・手段(samvrti)である。そしてそれら(諸存在物)は、それ(観念)によっ て異なりが覆い隠されたものとして、それら自身は[他の一切と全く]異なるに もかかわらず、異ならない同じものであるかの如くにある相をもって顕現する (kenacid rupena pratibhanti) . 以上、存在レヴェルではその svabhava (a) の故に個々別々である諸存在物(bhavah) は、概念的認識レヴェルでは、それらを根拠として生じてくる観念(=概念的認識) のうちにその個別性を覆い隠されて、認識者の潜在印象の本性に基づいて区別されな い同じもの、即ち同類として、ある特定の相をもって顕現するのである(下線部)。 概念的認識のレヴェル、即ち日常知のレヴェルで、bhava とは、単に「存在するモノ」 であるにとどまらず、「ある特定のものとして観念の内に現れた存在物」という性格 をもつ。すなわち「現象」である。「ある特定のものとして」とは、例えば作られたも のやシンシャパー樹として、と理解してよいであろう。ここに我々は、Dharmakirti の存在に対する見方を確認することができる。「性状、あり方」が不可分にそのまま 「存在」であるようなもの、それが概念的認識レヴェルにおける bhava なのである。 <<1.22 存在レヴェルと概念的認識レヴェルの関係》 このように、その原因として潜在印象がからんでくる以上、もののあるがままを言 語化・概念化するのは原理的に不可能である。概念的なものはすべて観念のうちなる -7Page Navigation
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