Book Title: Bhava And Svabhava
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Page #1 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 夕山之手一下10「本質「論 - bhavat svabhava 船山徹 南都佛教 第63號 別刷 平成元年 12月発行 Page #2 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 ダルマキールティの「本質」論 - -- bhava と svabhava - 船山徹 序問題の所在 インド仏教の最大の巨匠のひとり、Dharmakirti (ca.600-660)の一連の著作活動 の真意は何であったのか。また、知識論と宗教的実践をどのように関係づけていたの か。現時点でこれらの問題に十分な解答を与えることはできない。しかし、さしあた り彼を日常知の妥当性と虚偽性の構造を解明した哲学者、さらに、その日常知の妥当 性に合理的根拠を与えようと腐心した論理学者として捉えておくのは誤りでないであ ろう。論理学者としての Dharmakirti は、Dignaga (ca.480-540)の、そしてその 弟子であり自身の師匠である Isvarasena の論理学をうけて、大成させ、後代の仏 教知識論学派へのみならず、他学派へも絶大な影響を残した。ひとことで言うならば、 彼の論理学的活動は、「主張命題を理由づける証因 (hetu、論理的理由)とは何か」 を探究する過程そのものであった。 本論文では、従来の優れた研究成果をもとに、Dharmakirti の独立した処女作と 推定されている Pramanavarttika-svarthanumana 章 (PVI)の自注(PVSV)を 用いて、彼の後続する諸著作(PVin, NB, HB, VN) の論理学的発達の<出発点> として彼がどのような構想を描いていたのか、その基本的性格をあとづけてみたい。 周知のように、彼が Svarthanumana で認める肯定的な推理の形式は二種である: 形式(I) AはCである、Bであるから。 (例)これは木である。シンシャパー樹であるから。 (vekso 'yam simsapatvat.) 形式 (1) AにはCがある、Bがあるから。 (例)ここに火がある。煙があるから。 (atragnih dhumat.) - A (主題 dharmin)、B(証因 hetu)、C(所証 sadhya) いま、従来の研究成果とその問題点を整理するために、三つの問いをたててみよう: 問い (i) 証因(B) の満たすべき条件は何か。 (ii) 証因になるのはどんなものか。 () 証因はいかに所証(C)と関係し、なにゆえに主張命題を (1) Page #3 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 ( 2 ) 理由づける力をもつのか。 まず問い(i)については、v.1 ab で「証因とは、主張命題の主題の属性(paksadharma)であり、かつそれ(paksa)の他の構成要素(=所証属性)に遍充される ものである」と言われる。つまり、証因の条件は主題所属性 (paksadharmata, tva) と遍充関係 (vyapti) である。さらに後者については、自注で「遍充関係とは能遍が それ(所遍)に必ず存在すること、換言すれば、所遍がそれ(能遍)にのみ存在する ことである」と説明される。彼は PVin, NB において Dignagaの「因の三相」を 綿密に吟味するが、PVSV に限って言えば、Dharmakirti は、因の三相説の踏襲と いう形はとらず、むしろラディカルな自説のうちに因の三相説をも取り込む形で議論 を進める。 問い (ii)についてはどうか。三つの条件を備えた証因とは一体具体的には何なの か、と問うならば、Dignaga の場合、種々の例を列挙することはあっても体系的な 答えはなかったであろう。彼は(i) については議論していない。ある意味で問い (i) は(i) に還元されるといえる。両者を区別して(i)に対して「証因は三種 に分類される」という解答を与えたのがほかならぬ Dharmakirti であった。 証因は、karya と svabhava, anupalabdhi の三種 [のみ]である。その例。 [順に]「ここに火がある。煙があるから」、「これは木である。シンシャパー樹 であるから」、「この場所のどこにも壷はない。知覚されるための条件を備えて いるにもかかわらず現に知覚されないのだから。」 混乱を避けるため、以下の議論では「三種の証因」としての karya, svabhava をそ れぞれ karyahetu, svabhavahetu と表記しよう。 問い (ii)についてはどうか。 証因の満たす条件がわかり、証因の種類が三種に 限られることがわかったとして、では何故そういえるのか。v.1 c では「不可離関係 は「三種に] 限定されるから」(avinabhavaniyamat) と言われる。これだけでは 既に二つの属性の間に一方向的な関係 (lingalingin)を認めていた Dignagaと際立っ た相違はないようにも思われようが、さらに Dharmakirti は下の引用に見るように、 karyahetu と svabhavahetu は実在を肯定的に論証するもの (vastusadhana)であ るという、彼の論理学を Dignaga のそれから区別する根本的相違点を明らかにして いる。桂[1986] によれば、独自相と一般相、直観と概念を峻別した Dignaga にとっ て、他者の排除 (anyapoha)によって概念のうちにのみ成り立っ論理学は、直観と その対象である個別相に直接的には関係しないものであったが、この点を鋭く批判し たのが Mimamsa 学派の巨匠 Kumarila (ca.7世紀)であり、彼は概念的で非実在 の普遍(samanya) を対象とする限り、推理・論証は成立しないとする。Dignaga を擁護して Kumarila の批判に答えたのが Dharmakirti である。概念の内でのみ (6) (7) -2 Page #4 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 妥当な推理が、いかに実在と関係し、なにゆえに実在を論証する効力をもつのか。換 言すれば、概念は実在といかに対応するのか。これが彼の課題であったわけである。 彼は言う: その「三種の証因の] うちで二つ(karyahetu と svabhavahetu)は実在を肯定 的に論証するものであり、一つ (anupalabdhi)は否定的証明の論拠である。と いうのも、本質的連関があればBはCを逸脱しない。 [syabhavahetuの場合] それ(本質的連関)は同一性にもとづく。......karya [hetu] にも本質的連関が ある。それ(結果)の本質は因果性にあるから。 実在と概念の二つのレヴェルをつなぎ、証因を実在を肯定的に論証するもの (vastusadhana) たらしめるものが本質的連関 (svabhavapratibandha) なのである。しか し残念なことに、現在のところ本質的連関、同一性 (tadatmya)、因果性(tadutpatti) 等、Dharmakirti の論理学の根幹にかかわる語について、研究者の間に統一見解は ない。この点については、実在と概念の対応を示す他の記述も含めて第2章で検討す (9) る。 .. 以上、三つの問いをもとに彼の論理学の特色を確認してきたが、再び振り返って、 「三種の証因」については十分明らかであるかと問うならば、必ずしもそうではない。 ここで特に問題としたいのは svabhavahetu の理解である。周知の通り、syabhava と いう語に焦点をあてて文献学的解明をしたのは Steinkellner であり、彼は“Wirklichkeit und Begriff bei Dharmakirti" [1971] の中で、svabhava の二義性を明らかに した。すなわち svabhava は、存在論的文脈では存在の原理としての事物の効力 (sakti, janaka-, etc.) を意味する。他方、論理学的文脈では、他の事物によってで *はなくその事物それ自身と共に在る属性・性状(bhava、dharma)、実在個物にか かわる概念を意味すると結論した。そして "On the interpretation of the svabhavahetuh" [1974] にいたり、最終的に、論理学的文脈の svabhava に "(the concept of) an essential property"「本質的属性(の概念)」という訳語を与える。しかし、 svabhavahetu についての考察はこれで充分尽くされているわけではない。 いまひとまず Steinkellner の研究を離れて、svabhavahetu について、Dharmakirti の定義(laksana) をHBの中から探すと次の通りである: そ(の三種の証因)のうち、能証属性 (sadhanadharma)の存在だけに随順す る所証属性 (sadhyadharma)に対して、syabhava は証因である(定義)。様々 な排除(vyávrtti) の相違によって[能証と所証の間に] 属性としての相違はあっ ても、[証因は]実在レヴェルでは、lingisvabhāva にほかならない。[所証属 性が] hetusvabhava であれば、[所証属性は能証属性を決して]逸脱すること なく随順するから、[上の]定義(laksana) の中に「それだけに随順する」と -3 Page #5 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (12) いう限定句が「付してある。それは]他学派の説を考慮してのことである。とい うのも、他学派の者たちは...... 以上は問題のある箇所であるが、いまは、(i) 論理的関係が明確に能証属性と所証 属性の関係とされ、(i) それが定義とされている点を確認しておくにとどめよう。 さて、これを暫定的な基準としてみると、最後期の VN も上の HB の定義を踏襲す るものといえる。勿論、HB に先行する PVin, NB でも svabhavahetuは論じられ ているが、それらに相当する記述が最初になされたのは PV I, PVSV においてで ある: [結果が原因に対して証因であるのと同様に] bhava も、bháva だけに随順す る svabhava に対して証因である。というのも、同一性とは、あるものの、そ のものだけに随伴するもの (svabhava)に対して成り立つ関係]なのであっ て、他に依存するものに対してではない。それが存在する時点でまだ存在してい ないものは、必ずしも後に存在するわけではないから。原因は結果を逸脱するか らである。 svabhave bhavo 'pi bhavamatranurodhini (= v.2cd) hetur iti vartate / tadatmyam hi arthasya tanmatranurodhiny eva nanyayatte / tadbha ve 'bhutasya pascadbhavaniyamabhavat / karananam karyavyabhicarat. PVSV (4,1-4) ここでぜひとも注意しておきたいのは、これが「三種の証因」のうちの svabhavahetu の説明であるにもかかわらず、証因に相当するものが svabhava ではなく bhava であり、所証の方が svabhava となっている点(下線部)である。これ以降の箇所 でも Dharmakirti は明らかに証因を bhava、所証を svabhava とするのである。 この点で、NB, HB, VN と異なる。だがその一方で、長大なアポーハ論のあとで svabhavahetu の議論を再開する中で、例えば次のように証因と所証を共に svabhava とする記述もみられるのも見逃すことはできない: siddhah svabhavo gamako vyapakasya tasya niscitah / gamyah svabhavas ......... (=v.192abc) このような事情を一体どのように理解したらよいだろうか。 注釈家たちは証因にあたる bhava を svabhava に置き換えて説明するにすぎな (15) い。しかし勿論、この単純な置き換えから直ちに bhava を svabhava と読み替え てよいことにはならない。bháva=svabhava とするならば、svabhava に置き換え られない、bhava 特有の語感を見失いかねないであろう。 先に紹介した Steinkellner [1971,1974]は、一方で bhava (証因)を dharma である点から属性 (property) と規定し、他方 svabhava の方は本質的属性(essential -4 Page #6 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 property)と規定したが、その同じ bhava (証因)が「三種の証因」としては svabhava となる点についての説明はないように思われる。svabhávahetu の Stcherbatsky 訳“identity" も、Steinkellner の斥けるように認められないのかについても再 にもかかわらず、不即不離の関係にある点を Dharmakirti 自身の言葉から確認する ことができる。そこで、二義のつながりを再確認した上で、従来の研究成果をもう一 歩推し進めることができるのではないか。 svabhavahetu の議論は、それ以外の様々な議論を参照することなしにそれだけを 見ても理解しがたい部分がある。以下の議論では、PVvv.1-198 とその自注を範囲 として、可能な限り PVSV の文脈だけから bhava と svabhava の意味するところ を、Dharmakirti の思想的な振幅も考慮に入れた上で、もう一度吟味し直してみた い。まず第1章では、所謂アポーハ論における存在・認識のレヴェルの bhava と svabhava の用例と意味を抽出し、第2章では論理学に移り、まず karyahetu の性格を 確認した後で、そこから言える証因としての共通性を svabhavahetu の場合にも適 用したとき、最終的に Dharmakirti の論理学において bhava と svabhava の二 語がどんな役割を果たすのかを結論してみたい。 1章 bhavaとsvabhavaからみた有 ミントンへ 心職論 . PVSVでは、そのテーマが実に多岐にわたり、しかも相互に密接に関係しあうため に、同じ一つの語(arthakriya, bheda 等)でも、文脈に応じて様々な意味をもって あらわれる。bhava と svabhava も例外ではない。従って、我々はこれらの語がどの ような文脈で用いられているのかを考える必要がある。ここで今、議論の文脈(レヴェ ル)を、存在レヴェル・概念的認識レヴェル・論理学的レヴェルの三つに分け、順に、 我々の概念的認識に関わらない存在物の在り方が論じられている文脈、概念的認識お よび概念的に認識された存在物の在り方が論じられている文脈、論理学的な議論がな されている文脈を意味する、と便宜的にきめておこう。これらが全く独立したもので はあり得ず、相互に緊密に連関するのは言うまでもないが、ひとまず三つに分けてお くことは作業の手続きとして有効と思われる。 <<1.1 存在レヴェルの bhava と svabhava>> 周知のように、Dharmakirti は vv.40-42 で推理論(直接的には svabha vahetu -5 Page #7 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 細については従来の研究に譲り、ここでは我々の議論に関わるものとして v.40 のみ に注目しておきたい。 諸存在物(bháváh)はすべて、その本性によって、自身[にのみ固有な]本質 (svarupa =svabhava)において確定されているから、同類 [と想定される存在 物]からも他(異類)[と想定される存在物]からも全く] 異なっている。 以上は語や概念的認識が関与する以前の存在物の在り方を述べたものであり、同様の ことは、他学派の主張する「実在する普遍」(samanya) の否定をはじめとする新 しい議論を展開する際にもしばしば前提とされる。従って、v.40 は存在レヴェルで の議論といってよいだろう。 存在レヴェルで個々の bhava (存在物)は、それ自身に固有な svabhava (=svarupa, 本質)においてその何たるかが規定され、それ故、それ以外のどのbhavaとも 全く異なる存在物である。同じことを svabhava を視点としていえば、syabha va はその bhava が他の一切から異なることの根拠として機能する。この「区別化の根 拠としての svabhava」を以下《 svabhava (a)》と略す。 bhava と svabhava がそれ以外の一切と異なる点、この点を存在レヴェルのメルク マールとすると、bhava(存在物)とは認識一般を離れた外界の存在世界にあるもの ではなく、<概念的認識>を離れた直観 (pratyaksa) の対象、すなわち独自相 (svalaksana) であることがわかる。Dharmakirti は別の箇所で「基体・属性などの部分 をもたない、[他の]一切からあらゆる点で異なる本質をもつ存在物が直接経験(= 直観)される」と述べているからである。そしてこの直観において、対象は全くあり のままに一個の全体として、細かな特徴まですべてくまなく認識把握されているとさ れる。 <<1.2 概念的認識レヴェルの bhava と syabhava>> 存在レヴェルでは、svabhava は個々の bhava に不可分に内在する本質的要素で あるから、実念論者 (realist) の主張する恒常・実在なる普遍(samanya) の単一 性・個物随伴性等は当然否定されるけれども、逆に不都合が生じる。すなわち諸存在 物はすべて個々ばらばらとなり、相互に全く無関係ということになり、そうなると、 ある一定群のものを等しく「壷である」、「木である」と言語化し判断すること一一 Dharmakirti の文脈ではそれは推理にほかならない一に存在レヴェルの根拠はな くなってしまうように思われる。つまり、一般に「AならばB、BならばC、故にA ならばCである」という推理が個別的事例 ai, az, as, ...... を主題としてなされ る場合、その a1, aa, as,......... には等しく「Bである」と述語化され得るAとし ての<性質上の均一性>が前提されねばならないはずだが、もし個々の存在物が全く -6 Page #8 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 ばらばら・無関係であるならば、推理は全く成り立たないか、あるいは存在物とは何 の関わりももたぬ、単なる概念内の出来事にすぎないと認めざるを得ないであろう。 このように推理論との関係から Dharmakirti の存在論・認識論を考えるとき、彼は どのような立場をとるであろうか。この点を次に確認してみたい。 <<1.21 概念的認識の生成と現象(bhava) >> 実に観念は、それ以外[の一切]と異なる諸存在物(padārtháh, = bhavah) を根拠として生じてくる概念的なものであり、[観念]自身の「無限の過去から の]潜在印象の本性に基づいて[全く] 異なるこれら(諸存在物)の姿を覆い隠 して、[それらの] 顕現を区別なき同じものとして、「観念]それ自身のものと して付託し、それら(一定群の諸存在物)を混合してまとめ示す。そしてそのよ うにそれ(ら諸存在物)の顕われをもってこれ(観念)が顕現するということが、 同じひとつの原因や結果をもつ点で他(異類)とは異なる諸存在物(同類)とそ のような観念の「原因である] 潜在印象の本性なのである。 - これ(観念)は、[観念]自身の姿によって他(諸存在物)の姿が[覆い隠さ れる]というように、「それによって覆い隠される」のであるから、覆い隠すも の・手段(samvrti)である。そしてそれら(諸存在物)は、それ(観念)によっ て異なりが覆い隠されたものとして、それら自身は[他の一切と全く]異なるに もかかわらず、異ならない同じものであるかの如くにある相をもって顕現する (kenacid rupena pratibhanti) . 以上、存在レヴェルではその svabhava (a) の故に個々別々である諸存在物(bhavah) は、概念的認識レヴェルでは、それらを根拠として生じてくる観念(=概念的認識) のうちにその個別性を覆い隠されて、認識者の潜在印象の本性に基づいて区別されな い同じもの、即ち同類として、ある特定の相をもって顕現するのである(下線部)。 概念的認識のレヴェル、即ち日常知のレヴェルで、bhava とは、単に「存在するモノ」 であるにとどまらず、「ある特定のものとして観念の内に現れた存在物」という性格 をもつ。すなわち「現象」である。「ある特定のものとして」とは、例えば作られたも のやシンシャパー樹として、と理解してよいであろう。ここに我々は、Dharmakirti の存在に対する見方を確認することができる。「性状、あり方」が不可分にそのまま 「存在」であるようなもの、それが概念的認識レヴェルにおける bhava なのである。 <<1.22 存在レヴェルと概念的認識レヴェルの関係》 このように、その原因として潜在印象がからんでくる以上、もののあるがままを言 語化・概念化するのは原理的に不可能である。概念的なものはすべて観念のうちなる -7 Page #9 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 出来事なのであって、実在との直接的関係はありえない。それを実在と判断するのは 迷乱(錯誤、bhranti) にほかならない。しかし、実在諸個物は概念的認識と全く無 関係なのか、何の働きもなさないのかというと、そうではない。周知のように Dharmakirti は、実在を実際的な効果をなすかどうかという非常にプラグマティックな 見地から捉え、ある効果的な作用 (arthakriyā)をなす能力あるものを実在(vastu) と規定する: ......従って、諸個物(visesah) のみが「効果を]生み出すもの (janaka) であり、 普遍 (samanya) はそうではない。従って、それら(諸個物)のみが実在である。 なぜなら「効果的作用をなし得るもののみが真の存在物 (paramarthiko bhavah) である」(=v.166ab)から。実に、効果的作用をなし得るものが実在であり、その 能力のないものは非実在である。これが実在と非実在を峻別する徴表である。...... ところで、例えば、シンシャパー樹やカディラ樹、ニヤグローダ樹等のそれぞれ異な る名称で呼ばれる諸個物は、相互に全く別個であっても、その本性によって、同じ一 つの形をとる「木である」という判断や、木材であることによる「燃える」、「建材とな る」等の効果的作用を、その条件に応じて生ぜしめる。他方、別個である点では、シン シャパー樹等の場合と何ら違いがなくても、水等はそうした効果を生じない。つまり、 存在物はすべて個々別々であるのに、そのうちのある一定群の諸個物だけが判断等の 同じ効果を生み出すというのである。では、なぜ同じ効果を生じるのか。その理由を Dharmakirti は v.73 とその自注では「本性によって (svabhavena, prakrtya)」と述 べるにすぎないが、v.109 では、svabhava を軸により理論的な考察を加えているの で、この点を次に確認しよう。 知覚知(知覚表象)は区別されない同一のものとして「知識の内に顕われてく る。]なぜなら、同一の判断の原因であるから。そして、そのような同一の知覚 知の原因であるのだから、諸個物もまた同一のものとして「知識の内に顕われて くる。] (= v.109) 諸個物は、それぞれの svabhava(本質)が混合することは決してない。他方、 [これらの別々の個物に対して]ひとつの複合された形をもつ知覚知は錯誤知に 他ならない。しかし、個々の個物は、概念知の間接的な原因である限り、その svabhava に基づいて、そのような知覚知を生み出すのである。そして、同様に作用 することのない svabhava をもつものからの区別 (atatkarisvabhavaviveka) が、 諸個物にある共通の異他性(abhinno bhedah)と呼ばれるのである。知識など のある特定のひとつのものが生み出されるのだから。これ(知識)もまた、[実 際には]個物ごとに区別されるものであるにもかかわらず、その「個物の]本性 に従って、同一性を確定するところの同一判断の原因である限り、区別なき同一 -8 Page #10 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (23) のものと思われるのである。諸個物もまた、「それ自体で] 「これこれである」 というひとつの判断の原因であり、区別なき顕現をもつ知覚知などの対象の原因 であるから、その.svabhava に基づいてひとつの観念を生み出す。その観念は、 ひとつの混合された形象をもつが、実際には] 個々の特定の svabhava を絶 対的な対象とするものである。このことはしばしば明らかにされている。それ故、 ある諸個物が区別なき同一のものであるということは、「それらが]ひとつの同 じ結果をもつということに他ならない。(赤松訳) 同一判断(異なる事物に対する同じ一つの判断)には存在レヴェルの根拠がある、と いう主張である。複数形 bhavah (=bhedah, bhedinah, vyaktayah)は、異なる地 点に同時に存在する諸存在物とも、同一地点で瞬間々々に生滅する諸存在物ともとれ ようが、とにかく「諸存在物(諸個物、bháváh) →知覚知→同一判断」の因果系列 を考えると、同一判断の原因である限り、知覚知にも共通性(同一性)があり、そう であれば、その原因である諸存在物にも、異類から等しく異なるという意味での同一 性(同類性)があるはずだというのである。この意味で、個々の存在物(bhava) は 同一判断の間接的根拠である。そして、それらはほかならぬその本質 (svabhava) に基づいて、同一判断という効果的作用をなす、というのである。 さきに我々は、 svabhava はその bhava を他の一切から区別する根拠であると 述べたが、ここに svabhava のもう一つの側面を確認することができる。即ち、bháva の svabhava は、認識者の潜在印象と協働して、一定群の bhava (同類)を他のも のから等しく異なるものとして認識させ、同一判断を生み出すための根拠となるので ある。この「同一化の根拠」としての svabhava を、今後《 svabhava (b) 》と略 す。まとめると、bhava のうちに不可分に内在する svabhava には、次の二つの側 面がある: svabhava (a): 「(他の一切からの)区別化の根拠」 svabhava (b) : 「(異類から等しく異ならせる) 同一化の根拠」 両者は同じ一つの svabhava の二側面であり、「異なりの根拠」として共通する。 そして、svabhava (b)によって、「これこれである」という概念的な判断が実在の 諸存在物と関係をもつのである。 このように Dharmakirti は、存在レヴェルで諸存在物(bháváh)は個々別々で あるとしながらも、arthakriya 理論を介して、ある一定群の諸存在物に同類 (sajatiya)としての一種の同一性(共通性)を認め、概念的認識に存在レヴェルの基盤を 与える。 24) <<1.3 概念の対象と svabhava >> -9 Page #11 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 以上、ある判断を生み出すという効果的作用が svabhava に基づくこと、そして その限りで存在レヴェルの svabhava が概念の根拠(基盤)となっていることを確 認したが、このことは、概念 (vikalpa, buddhi)とその対象として個々の実在のも つ本質 (vastusvabhava)との間の直接的な対応を意味するわけではない。概念の対 象はあくまで他の排除としての一般相(samanyalaksana) である。従ってまず、svabhava は個々の概念を生み出すにいたる間接的原因ないし契機として概念と関係す るにすぎない。だが、このような関係に加えて、svabhava は、以下にみるように、 人間の活動の対象としても概念的認識レヴェルと関わりをもつのである。 Dharmakirti は、実在 (vastu) を効果的作用をなしうるものと規定した。そして 効果的作用には、「結果を生み出すこと」と「人間の目的達成」等々の二つの側面の あることは、周知のとおりである。 前項で述べたように、前者の側面では、存在し ヴェルの svabhava は「bhava は svabhava にもとづいて知識を生じる」という形 で関係したが、後者の側面に関して svabhava はどんな役割を果たしているであろ うか。以下にこの点を考えてみたい。 それ(個物 visesa) のみが実在である。 それ以外のもの(普遍)は、それの [他からの]排除なのである。その、「結果」「原因」と表現されるものは、独 自相であるとみとめられる。人間の活動は、すべてそれ(実在=独自相=個物) の取捨を結果とする。 .........(中略) ...... 「牛は馬と異なるか否か」とその相違と非相違(共通性)を問うて、人は誰で も存在物(bhava)の本質 (svabhāva)とよばれる固有性(特性 visesa)こそ に眼を向けて活動する。それ(svabhava)こそが「これこれである」と言われ るからである。 ......あるものが、「眼前の]「これ」のそれ以外とは共通しな い(独自の) 本質 (atman) であり、そのものを求めて人間が活動する場合、......... そのものこそが本質 (svabhava) なのであり、それがその都度の語によって指 し示されるのであって、「実体性」等の普遍が「指示されるわけでは」ない。 Dignaga によれば語と対象の関係は取り決め事(協約 samketa) にすぎず、そこに 本有的なつながりはあり得ない。語は自らの表示対象を他者の排除(anyapoha)に よって言い表すにすぎない。それに加えて Darmakirti は、ひとたび対象に語を適 用するならば、人は、自らの目的に叶う結果をもたらしてくれる対象——効果的作用 をなし得るものと、そうではない対象を区別して、前者に向かっては行動を起こ し、後者に対しては行動を控えることができると考える。実用的見地からみるとき、 語はいわば「目的達成の起点」として機能するわけである。上の引用箇所は、このよ うな「対象」「語」「活動」の一連の関係を《bhava と svabhava》をキーワード ( -10 Page #12 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 として述べている。 このように Dharmakirti は、効果的作用をなす能力あるもの、すなわち存在物 (bháva)の本質 (svabhava)を軸として、存在のレヴェルと概念、語、そして実践 的活動を統一的に捉えていたと考えられる。概念はすべてアポーハにほかならないと いう一方で、概念的認識と存在レヴェルの svabhava とをむすびつけるのは、一見矛 盾するようであるが、この点は Dharmakirti のいう svabhava が、先に確認した svabhava (a) にせよ svabhava (b) にせよ、どちらも「あるものからの相違」という 性格のものである点を考慮すれば、十分納得できるであろう。bhava の svabhava と いっても、それは bhava と区別された実体的なものではない。存在物(bhava) が ある相をもって顕現するとき、その認識の根拠となり、しかもそれにもとづいて行動 を起こせば目的が達成される能力をそなえているもの、それを“svabha va" と呼ぶ にすぎないのである。この意味で、svabhava は、たとえ存在のレヴェルに帰せられ ているとはいえ、「概念の側から世俗的に構想された本質」という性格をもつと言え よう。事実、PVIIでは中観派との対論という形で次のように言われている: もし「一切は無能力である」というならば、(しからず。)種子等の芽等に対す る能力が知られている。もし「それ(=能力)は世俗によって考えられたもので ある」というならば、しかり、その通りであろう、(われわれもそのことを認め (戸崎駅) svabhava は、能力(sakti、生み出すもの janaka) にほかならないから、このパッ セージから、究極的には Dharmakirti 自身が svabhava の世俗的な性格を認めて いたことが解る。 る。) <<1.4 第1章のまとめ》 存在レヴェル(直観レヴェル)で、個々の bhava は、それ以外の一切から異なる 存在個物である。それは独自相であり、一個の全体として細部にいたるまでくまなく 直観される。それ故、他の bhava と比較した場合には、他のどれとも異なる。bhavaのこのような在り方は、その bhava にのみ固有な svabhava において確定され る。この意味で、bhava と不可分な内在要素としての svabhava (本質)は「区別 化の根拠」である(svabhava (a))。他方、概念的認識レヴェルで、bhava は、認識 者の潜在印象 (vasana)と結びついて、存在個物としてのあり方が覆い隠され、あ る特定のものとして顕現する現象である。それ故、ある一定群の bhava は同類(sajatiya) と想定される。そのような bhava のあり方も、実は存在レヴェルの svabhava に基づく。この意味で、svabhava は「同一化の根拠」である(svabhava (b)). svabhava は、存在レヴェルにおいて以上の二つの局面をあわせもつのである。さら -11 Page #13 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 に Dharmakirti は、実在を効果的作用(arthakriyā)をなし得るものと規定するこ とによって、「語」や「人間の活動」を svabhava を軸として一連のものとして総合的 に関係づけている。但し、このような Dharmakirti の思想のキーワード "svabha - va" も、あくまで世俗(samvrti)のレヴェルにおいて、概念世界の側から存在世界 を描出する場合に要請されるにすぎないことは、彼自身のうちに自覚されていた。 第2章 bhāvaとsvabhavaの論理学 (32) <<2.1 存在と認識、論理》 およそ概念的な認識は、ある特定の「他との相違」という立場に立って、「Xか非 Xか」という形で二分法的に対象を表示するにすぎない。この構造は、序に示した二 つの推理形式 (I,)にもそのまま妥当する。Dharmakirti は Dignaga の思想を うける形で言う: 属性(dharma, B, C)として、あるいは主題(基体 dharmin, A)としての相 違は、観念のうち「に顕れた」形象によって作られたものであって、「観念から 独立した客観的な]対象も[また同様に異なるわけでは)ない。観念上の相違は [対象から] 独立したものであって、対象を基盤とするわけではないから。それ (相違)によって概念化された認識対象 (visaya) に基づいて対象を理解する場 合、決して客観的な]対象[そのもの]の理解はあり得ない。 このように、Dharmakirti の論理学も Dignaga と同様に、「論理的世界はそのま ま実在の在り方を描写するものである」といった素朴なものではなく、なによりもま ず概念的認識への批判の上に成立する。しかし Dharmakirti の場合はこれに尽きな い。推理は、前述《1.22》に加えて、以下に見るような意味でも実在の在り方を反映 する側面を兼ね備えている。 多数の対象からの相違がありうるとき、そのうちのあるひとつの対象からの相違 が肯定されるか否定されるかを探究する者に対して、人はそれ以外の相違をすべ て除外するところの属性表示語によって (pratiksiptabhedantarena dharmasabdena)、ほかならぬその実在 (vastu) を教示して、観念のそのような(異なる) 顕現にもとづいて、[その実在を]異なる属性であるかの如くに確定して示す [一方で、] 無限定に(種々の相違を除外することなく)、やはりまた「同じ] これ(実在)の本質 (svabhava) を、基体(dharmin)として「確定して示す のである。」そして、その限りでの属性と基体の部分的な相違にもとづいて、観 念は、あたかも[全く]相違するかの如くに顕現するのである。実在としての相 まま -12 Page #14 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 違にもとづくわけではない。 ......そのような相違の多様な教示によって、こと ばの上での相違と、所証(sadhya)と能証(sadhana)の相違が、そのものの本 質自体(tatsvabhava)を等しく基盤とするところの、属性としての顕現の種々 の相違によって、そのものの本質自体を人に教えるために「想定」される。 主題(基体)表示語Aと、属性表示語B、Cは、排除の相違のためにそれぞれ概念と して全く異なり、語にそのまま対応する実在はない。とはいえ、概念と存在の対応を すべて否定するのではない。同じひとつのものが、それぞれの語によって異なるもの であるかの如くに指し示されるという形で、概念は存在のあり方と関係するのである。 <<2.2 実在を肯定的に論証する証因の分類基準》 Dharmakirti は karyahetu と svabhavahetu の二つを、実在を肯定的に論証す る証因 (vastusādhana)としてまとめる(序を参照)。これが両者の共通点である。 他方、相違点としては、karyahetu が 所証 (sadhya, karana) と存在レヴェルで異 なる対象と関係するのに対して、svabhavahetu は同じ対象と関係する点を挙げる。 彼は、後代の注釈家のような整然とした分類は行っていない。だがその萌芽は彼自身 のうちにあり、実在を肯定的に論証する証因を上の二つで必要十分であると考えてい たであろうことは容易に判明する。 つまりこうである。証因と所証はそれぞれ別の語によって別の相違 (bheda) とし て示される概念である。その二つの概念は、(i)存在レヴェルで各々異なる対象と 関係する場合 (arthantara) と、そうではなく、(i)同じひとつの対象と関係する場 合 (anarthantara)がある。場合分けはこの二つしかありえない。 * まず(i)の場合: 別個なものの間に成り立っ] 非逸脱関係 (avyabhicara) は、因果性 (tadutpatti) 以外に何があろうか(ありえない)。他に依存しない(全く独立した)性質をも つものの間には、[Bがあれば必ずCがあるという]限定的な共存関係がありえ ないのだから。 このように、別個なものの間に何らかの必然関係があるとすれば、一方が他方の原因 であるという関係、つまり因果性しかありえない。そして原因から結果を推理するこ とはできないから、論理的必然性は結果から原因を推理する場合にのみある。かくし て karyahetu のみが妥当となる。 次に、(i)の場合はどうか。これが svabhavahetu にほかならない: bhava も bhava だけに随順する svabhava に対して証因である。というのも、 同一性(tadtmya) とは、あるものの、そのものだけに随順するもの(svabha, va)に対して「成立する関係]なのであって、他に依存するものに対してでは -13 Page #15 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 ない。それが存在する時点でまだ存在していないものは、必ずしも後で存在しな いから。原因は結果を逸脱するからである)。 このように Dharmakirti は、概念と存在レヴェルの対象の対応関係から、karyahetu と svabhavahetu の二つを、限定的に数え上げたのである。後者については論ずるべ き点が多いが、ここでは、後者の tadatmya 関係が、他に依存する別個なものの間に 成り立つ関係の否定として、すなわち「異ならない同一の対象に関わる二概念間の関 係」、「同一物における関係」として提出されている点を確認すれば十分である。 svabhavahetu について議論をすすめるために、以下にまず karyahetu を考察して おきたい。というのも、もし karyahetu における推理構造が判明すれば、翻って svabhavahetuの場合にも、ある程度パラレルな理解が可能となるからである。 (2.3 karyahetu) (形式)AにはCがある。Bがあるから。 (例) ここに火がある。煙があるから。 <<2.31 証因と所証の関係》 上述の「別個なものの間に成立する非逸脱関係は tadutpatti 以外にありえない」 という Dharmakirti の説に対して、次のような反論と応答が展開される: (反論)もし因果性 (tadutpatti)の故に karyahetu が「所証=原因を]知 らせるのであれば、[結果と原因の間には]あらゆる点で知らせるもの (gamaka)と知られるもの(gamya) の関係があることになろう。なぜなら「両者に は]あらゆる点で生み出されるもの (janya)と生み出すもの (janaka)の関係 があるのだから。(応答)そうではない。それ(原因の特殊性質)がないときに [も]存在するもの(結果の一般性質)は、それから生じたとは必ずしもいえな いから。従って「結果は原因にあるいくつかの svabhava と不可離関係 (avinabhava) をもつ」(=v.2ab)。それら(原因の特定の本質=原因の一般性質)[を 知らせる]「証因である」(=v.2c)。なぜなら、それ(ら原因の一般性質)の結 果であると確定されるからである。それら(原因の一般的性質)なしには存在し 得ないそれらの属性(結果の特殊性質)を伴っているからこそ、結果は証因と して認められるのである]。 (反論)「そうであれば]生み出すものと生み出されるものの関係が[存在の レヴェルで] 部分的であるという不都合がある。(応答)そうはならない。[存 在レヴェルの関係は部分的ではなく全面的である。]それ(原因にある特殊性質) から生じた[結果の]特殊性質が認識されるときには、[その原因の特殊性質が -14 Page #16 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 知られ得るのであり、] そして、「例えば煙という]特定の証相(linga) に限 定された諸普遍(結果の一般性質)が「認識されるときには、それらが知らせる ものであると] 想定されるからである。「しかしこのように] 特定化されない [結果の] 一般性質[を知らせるもの(gamaka)と]する場合には認められな い。逸脱をきたすからである。 Dignaga は原因と結果の間の論理的必然関係(avinabhava) を「結果の特殊性質か ら原因の一般性質へ」と限定した。これに対してまず Dharmakirti は、同じ問題を "svabhava" という観点から論じる。この考えは、直ちに反論を誘発する。原因と 結果の間の存在レヴェルの関係が、部分と部分の間でのみ成り立つということになっ てしまうが、そんなことはありえないではないか、というのである。これに対して、 Dharmakirti は原因と結果の様々な関係に言及し、「存在レヴェルでの原因と結果の 関係は全面的である。必然性は Dignaga 説のようにのみ限定化されるのではなく、 引用のごとく或る一定の諸性質の間に可能であるから。ただし存在レヴェルの全ての 関係が無限定に推理の必然性を有するわけではない」との趣旨で応答しているわけで ある。 以上の議論で注目しておきたい点は二つある。まず Steinkellner の指摘するとお り、ここで "svabhava" ——自注では dharma と換言される―― が複数形で示さ れることから、この文脈での“svabhava” の概念的性格が窺える。 さらにもう一点は、論理的関係が一般に結果の特殊性質(gamaka)から原因の一 般性質(gamya)へと限定されるにもかかわらず、証因は「結果の特殊性質」では なく、そのような諸性質をもつ存在物としての「結果」そのものと考えられる点であ る。つまり、煙性や煙色性等、原因と必然的に関係するある特定の性質として認識・ 概念化されている限りで、そのように限定されて認識されている眼の前のものが証因 なのである。このような存在物のとらえ方は、概念的認識レヴェルの bhava (現象、 前述《1.21》)に通じるであろう。 <<2.32 結果と原因の非逸脱関係 (avyabhicara)>> 次に、「煙(結果)は火(原因)を逸脱しない」と言われる場合の非逸脱関係につ いて確認し、議論のレヴェルに注意しつつ、結果と原因の関係をさらに考えてみたい。 (問い) [証因が同類例に]見られること・異類例に]見られないことが、肯 定的否定的遍充の理解の根拠でないならば、どうして「煙は火を逸脱しない」と 理解されるのか。 「結果→原因」という推理(論理学レヴェル)の妥当性の根拠は何かという問いであ る。Dharmakirti は、一連の応答をまず次のように起こす: (40) -15 Page #17 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 ある一群のもの(X={x1, X2, X3, ...... })が知覚されると、知覚の条件を備 えていたにもかかわらず[それまで] 知覚されなかったもの(Y)が知覚される に至り、そしてそれら (x1, xz, xs, ......)のひとつ(x)でも欠けると[Y もまた]知覚されなくなる場合、Yはそれの結果である。そして煙の場合これが 妥当する。 (注)「それ」は、直接的には Xを指すが、Dharmakirti の存在論全体を考慮す ると、Xに代表される「原因総体X」 (hetusamagri) を指す。 以上が因果関係の確定方法についてPVSVの述べる唯一の箇所であるが、続いて彼は 次のように議論を展開する: それ(原因、火)なしにそれ(結果、煙)が存在するならば、「結果が必ず] 原因をもつ「という前提事実]を侵害するであろう。たとえ一度だけでもそのよ うに(煙が火の結果として)経験されれば、その[経験]から[煙は火の」結果 であると成立する。なぜなら、もし [煙が火の]結果でないならば、「煙は]一 度たりとも原因ならざるもの(火)から[生じ]ないから。 さらに、もし結果がそれ自身の原因なしに存在するならば、原因をもたないも のとなろう。 [およそ]AがBなしに存在するならば、BはAの原因ではない。 そして「今の場合] 煙は火なしに存在する[と仮定されている。]従って「火は] それ(煙)の原因ではない「と結論されるで]あろう。 さらに彼は、bhava のひとつとしての煙は時間的場所的に他の原因に依存している 旨を次のように論ずる: 「〔煙を〕原因をもたないもの(と仮定するならば、そのようなものは他に依 存しないのだから、常に存在するか、[常に]非存在かのいずれかである。[し かし実際は]諸存在物(bháváh)はある時にのみ存在する(kadacitka-)。[従っ て、この仮定は誤りであり、そのある時にのみ存在するという性質は、煙が〕他 (火)に依存することによるのである」(=v.35)。というのも、煙が原因をもた ない場合は、他に依存しないのだから、あるときに存在しないということはあり えない。それがあれば「それが生じるための原因総体に] 欠損はないのだから。 例えばこちらが望んだ時点のように。あるいは(そうでなければ)、「煙は]そ の(存在している)時点にも存在していないことになろう。なぜなら、非存在の 時点と何も違いはないのだから。 [しかし] 実際は、他に依存していることによっ て、諸存在物(bháváh)はある時にのみ存在する。存在の時点にはそれ(結果) が生じるための能力が結び付いており、非存在の時点にはその能力が結び付いて いないからである。なぜなら、もし場所と時間が等しく共に能力と非能力を備え ていれば、それ(結果)をもつこと・もたないことに何ら必然性がなくなるから (42) -16 Page #18 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 である。そしてその能力は因果性 (hetubhava)と別ではない。従って、ある場 所や時間(X)には生じることなく、それとは別な場所や時間 (Y)に生じてい る bhava は、そ(のY) に依存していると言われるのである。 ......だから、 その場所や時間が限定されているが故に、煙はそれ(原因総体)があれば一度知 覚され、そして「原因総体が一部でも]欠損すればまた知覚されなくなる場合、 これ(煙)の本質 (svabhava)は、それ(原因総体)によって生み出されるの である。さもなくば、たとえ一度たりとも生じるわけがないからである。それ (原因総体)によってそれぞれに定まっているそれ(煙)が、どうしてそれ以外 の状況で生じようか(生じない)。あるいは、もし生じたとしたら、それは煙 (結果)ではあるまい。 そしてこれに引き続き、以下のように、煙と火の関係が説明されて、非逸脱関係の構 造が最終的に結論される: 何となれば即ち、それ(原因総体)より生じた特定の本質自体 (svabhavavisesa) が煙なのである。同様に原因 (火)といわれるものも、そのような結果を生み出 す本質自体である。それ(煙)が[火]以外からも生じるならば、そ(の煙を生 み出すという本質)が、それ(火)の本質として成立しないのであるから、一度 とて[火が煙を]生み出すことはなかろうし、[煙らしきものが昇っても、実は] それは煙ではないであろう。「それは]煙を生み出すことを本質としないものか ら生じたことになるから。だから、それ(煙)を生み出すことを本質とするもの、 それこそ火である。かくて「煙は火を]逸脱しないのである。 以上の議論をまとめると次のようになろう。まず Dharmakirti は、煙に代表される 「結果」を存在物(bhava) と捉える。原因をもたないものは恒常的存在・非存在のい づれかであるが、bhava はある時にのみ存在するから、原因をもたないものではあり えず、何らかの原因によって生み出されたものにほかならない。そしてその原因とは 煙を生み出す能力を本質としてもつものであり、そのようなものが「火」と表現され る。同様に、煙も火によって生み出されたものといえる。このように Dharmakirti は原因と結果を、原因は結果を生み出す能力あるもの、結果は原因によって生成され るものというように、本質 (svabhava) を介する二つの存在物(bháva) の相互依 存的関係のもとにとらえるのである。 このような原因と結果の関係は、瞬間的(ksanika) という語こそ用いていないが、 恒常との対比のもとに場所や時間を論点として取り入れている点や、原因の svabhavaを生み出すもの (janaka)とする点(各下線部参照)、さらにその svabhava を能 カ(sakti)とする点から考えて、存在レヴェルで成り立っ関係であると結論して間 違いあるまい。 44 -17 - Page #19 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 以上が、非逸脱関係(結果⇒原因、論理学レヴェル)の妥当性の根拠である。Dharmakirti は、証因が同類例にみられるとか異類例にみられないとかいった認識のレ ヴェルにではなく、存在のレヴェルに論理的非逸脱の根拠を求めたのである。 (46) <<2.33 本質的連関 (svabhavapratibandha)、因果性 (tadutpatti) >> Dharmakirti は論理学的文脈で、「結果にも本質的連関がある。それ(結果)の 本質は因果性にあるから」と述べ、また tadutpatti と hetubhava について次のよ うにいう: 従って、本質的連関の故にこそ、証因は所証を知らせる。そしてそれ(本質的 連関)は、 [svabhavahetu の場合は] 同一性 (tadbhava) を、[karyahetu の場合 は] 因果性 (tadutpatti) を特徴とする。それ(本質的連関)こそが不可離関係 (avinabhava) なのであるが、「それは]同類例と異類例によって示される。 ...(中略) ........... 因果性 (hetubhava)は、それ(原因)が存在するときにのみ「結果は]存在 [し、原因がないときには存在しない」という「認識手段(pramána)] に基づ いて、喩例によって示される。それは別個な対象の間の関係である。 以上の二箇所を比較すると、まず、tadutpatti と hetubhava は、視点を結果におく か原因におくかの相違があり、あえて分析すれば、 tadutpatti: [結果が]それ(原因)より生じたこと hetubhava: [原因が結果の]原因であること となるが、文脈上同機能を果たしていることから、相違を重視するよりも、どちらも 「因果性」を意味する術語と解釈するほうが自然であろう。 次に、本質的連関 (svabhavapratibandha) は不可離関係 (avinabhava) と同義であ る。Steinkellner氏は前者を後者の実在上の基盤としており、この解釈の問題点は福 田 [1984] が指摘しているが、ここではさらに、svabhavapratibandha と avina bhavaの同義性の根拠をテキストに沿って確認しておきたい。まず第一に、上に引用し た Dharmakirti 自身の議論の文脈からも十分明らかであるが、註釈者 Karnakagomin も両者を同義としている。第二に、karyahetu における svabha vapratibandha, 即ち hetubhava が「喩例によって示される」とされ、また一方、不可離関係も喩例 によって示されるとされる点一以上からも、svabhavapratibandha が avina bhava を言い換えたものにほかならないと言えよう。そして、このような svabhavapratibandha = avinabhava が「喩例によって示される」とされていることから、それ は<論理的・一般的な関係概念>であると結論して間違いないであろう (svabhávahetuについては後述《2.44》)。 -18 Page #20 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 直前の《2.32》 で我々は、原因(火) と結果(煙)の間の svabhava を介する関係が 存在レヴェルの関係であることを確認した。しかるに今、「[結果が] 原因より生じ たこと」(因果性 tadutpatti)は、概念の中に成り立つ論理的・一般的な必然関係 であるとされている。――この二点をまとめると、次のように結論されるであろう。 推理の妥当性の基盤を存在レヴェルの関係に求めた Dharmakirti にとって、karyahetu における論理的必然関係は、存在レヴェルの関係に対応し、それに保証される。 存在レヴェルで結果は原因より生じたものであり、そのことが喩例により示される。 そして、「およそ結果(煙) あるところに原因(火) あり」という一般的な関係、つまり 法則が成立する。その関係を当該主題「ここ」に適用したとき、「ここ」にあると確認 されている、結果として認識・概念化されているものも、概念的認識のフィルターを 介している以上、上に見た概念的・一般的な法則と結び付いて、火の一般相を知らせ る。ここで、推理の主題と喩例の主題の間には存在レヴェルで《svabhava (b)》とし て共通性があることも注意しておきたい。このように、論理的必然関係 (svabhavapratibandha = avinabhava, 煙⇒火)は、存在上の関係(火→煙)を概念的・一般 的に捉えなおしたものなのである。このように見てくると、一方で存在レヴェルの関 係と対応し、また一方で不可離関係 (avinabhava)と同義の本質的連関 (svabhávapratibandha)とは、「存在レヴェルの関係に対応しそれを基盤とするが故にその妥 当性を保証される」という視点を織り込んだ論理的必然関係のことである、と言える。 (2.4 svabhavahetu) (形式)AはCである。Bであるから。 (例) これは木である。シンシャパー樹であるから。 音声は無常である。作られたものだから。 svabhavahetu la "svabhave bhavo 'pi bhavamatranurodhini hetuh." C U れるのであるが、この説明が karyahetu とペアになって導入される点は重要である。 本質的連関 (svabhavapratibandha) とは存在レヴェルの関係を基盤にし、その関係 を反映する論理的必然関係である。前項ではこの点を karyahetu の論述から結論し た。 karyahetu と svabhavahetu の間には、証因 (hetu)と所証 (sadhya) の関係 する存在レヴェルの対象の異同という相違はあるにせよ(上述《2.2)》、論理的必然 関係が存在レヴェルの関係を基盤にして成立する点は svabhavahetu と karyahetu の両方の場合に全く等しくあてはまる筈である。さもなくば、Dharmakirti が二っ の hetu に関する同一性 (tadbhava) と因果性 (tadutpatti) を本質的連関 (svabhavapratibandha) という同じひとつの語で統一する理由を説明できない。つまり、bhava(証因)と svabhava(所証)も何らかの存在レヴェルの関係と対応すると考える -19 Page #21 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 べきである。では、その存在レヴェルの関係とは何か。 従来の研究では、Dharmakirti の議論の文脈を存在論的文脈と論理学的文脈とに 大別し、前者における bhava を「もの」「存在」「事物」等と理解し、後者の文脈 での bhava は dharma と同義の「属性」「性状」等であるとして、この両者に積極 的なつながりを認めなかった。そして bhava(証因)とsvabhava(所証)の存在レ ヴェルの関係とは、両者が同一であること、換言すれば同一の本質 (svabha va) と 関係することである、とされてきた。筆者もこの説に基本的には賛成である。しかし ながらこのような理解だけでは、「Dharmakirti は何故証因も所証も共に svabhava としなかったのか」という疑問が残る。証因を bhava、所証を svabhava とし、さ らにその証因を「三種の証因」としては svabhava とするという、ある意味でわか りにくい記述を試みた Dharmakirti の真意は、あるいは別にあったのではないか。 [bhava (証因) と svabhava (所証)は、存在レヴェルの bhava(存在物)と svabhava (本質)に対応する。その対応関係を示すために Dharmakirti は bhava と svabhava をそれぞれ証因と所証に割り当てた。但し、両者は同一であり、究極的には同一 の svabhava (本質)が bhava(証因) と svabhava (所証)に関与する。この点が三種 の証因としては svabhava とされる所以である」――もしこのような仮説が許される ならば、上に述べた疑問も氷解する。そして実際、第1章で試みたように、存在レヴェ ルと論理学レヴェルという二つの文脈の間に概念的認識レヴェルを挟むと、論理学的 文脈での bhava (性状、様相)は、概念的認識レヴェルの bhava (現象、ある特定のも。 のとして概念化された存在物)そのものであり、それを介して存在レヴェルの bhava (存在個物)のあり方を反映すると理解することが可能である。 では、この仮説がどの程度まで妥当するか、我々は以下にこの点を検討しなければ ならない。 <<2.41 bhava(証因)について》 次の記述は、Dharmakirti が三種の証因を各々説明した後で、三種のどれに該当 するか問題になるような事例を、各論として吟味し始める箇所である: (問い)では原因総体によって(samagrena hetuna) 結果の生起を推理する場 合、それ(原因総体)は三種の証因のうちに、どのように分類されるのか。 (応答)「原因総体によって結果の生起を推理する場合、それ(結果の生起)は、 何ら他に依存しないのだから svabhava といわれる」(=v.7)。これ(結果の生 起)もまた、「結果を生み出す]原因として集合している限りで、何等それ以外 のものに依存しないのだから、それ (bhava) だけに随順するところの bhava の svabhava である。この場合、ただ専ら原因総体に基づいて結果の生ずる可能性 -20 Page #22 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (50) (karyotpattisambhava) が推理されるだけである。総体「のうちにある] 結果を 生み出す能力 (karyotpadanayogyata) が推理されるのだから。そしてその可 能性は、総体だけに (samagrimatra) 随順するのだから、まさしく svabhava と して (svabhavabhuta) 推理されるのである。 "svabhavabhuta" という曖昧さを残す表現からも窺える通り、以上は svabhavahetu 本来の説明ではない。だが、Dharmakirti が何をもって svabhavahetu と考え ていたかを知る有力な手だてとなろう。次の三点を指摘し得る。 まず“samagrimatra" という語(下線部)に注目したい。いま証因は原因総体 (samagri) だから、-mātra の直前につく語は証因と一致することがわかる。そうで あれば、上記 v.2cd の場合も、bhāvamātra- の bhava は bhava (証因)と同じとい うことになる。このように考えると、この二つの bhava を別個に訳し分ける Steinkellner 訳は、確かに NB や HB の記述とは一致するけれども、少なくとも PVSV の文脈では不適切ではなかろうか。むしろ“bhava”(証因)は属性と存在の両方の意 味を備えた語であると考える方が自然である。そして bhava (証因)を《1.21》で 確認した概念的認識レヴェルの bhava (ある特定の性質を帯びたものとして概念化 された存在物)と同じ概念であると理解するならば、原因総体(samagri) が証因と なるのも十分納得がいく。 svabhava (所証)について。いま証因は原因総体であり、所証は結果の生ずる可能 性であるが、後者は原因総体そのものが本来的に備えている<結果を生み出す能力> にほかならないから、“svabhava”(本質)であるとされる。この svabhava のとら え方は、上述《2.32》の結果に対する原因の svabhava (存在レヴェル)に通じ、svabhava(所証)と存在レヴェルの svabhava の対応を示唆する。 * ところで、所証が svabhava ならば、どうして証因が svabhavahetu (svabhava と いう hetu)に分類されるのかについては触れられていない。所証が svabhava なら ば、証因の方もおのずと svabhavahetu であると Dharmakirti は考えていたよう である。このような事情は、証因としての svabhava (svabhavahetu)が、「本質」 よりも「(所証と)同一物、自体」を意味するとすれば理解しやすい。 (51) <<2.42 svabhava (所証)について》 svabhava(所証)は、「ある bhava(C) が bháva(B、hetu)だけに随伴する場合 suabhava と呼ばれる」と説明される。ここに我々は「svabhava (所証) = bhava(証 因)それ自身」という図式をまず確認できる。この限りでは、必ずしも「 svabhava (所証)=本質」とは言い切れない。しかし、以下のような Dharmakirti の議論にお いて svabhava (所証)は存在レヴェルの svabhava(本質)と混然一体となって議 - 21 - Page #23 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 論されており、その点で svabhava(所証)を「本質」と言える。 svabhava(所証)はbhava (証因)だけに随伴するものであって、他に依存しな い。では、他に依存する場合は、なぜ svabhava ではないのか。 さらに「別個な対象を原因とする属性(dharma、C)は、存在レヴェルで も、能証=Bと] まったく別であろう」(=v.33ab)。というのも、Bが生起し ているときに、未だ生じていないもの(D) や [生じていても] 異なる原因をも つもの(E)は、Bの本質自体 (tatsvabhava)ではありえない。実際、種々の bhava の間の「相違」(bheda)とは、相矛盾する属性の概念的付託のことであ る。[従って、生じているBと生じていないDは相違する。同様に、]「相違を 引き起こす原因」とは、原因[総体]の相違なのである。[従って、BとEも相 違するのである。もし、] この二つが相違を引き起こすものでないならば、何物 にもどんな場合にも相違はないのだから、この世のすべては単一の実体となって しまうであろう。それ故、消滅は同時となり、一切が一切においてはたらくこと になってしまうであろう。さもなくば、「単一」ではなくなるか、あるいは対象 としての相違を認めたうえでそのように言語表示するのだから、別な名称となる はずである。 これに続いて、例えば「作られたものであるから無常である」という遍充関係で、証 因(作られたものである)よりも知識として時間的に後に生じて来る所証(無常であ る)についても上述のDと同じ時間的な前後性があるから、両者は全く別なのではな いか、という反論が提出される。これに対して、Dharmakirti は、bhava(存在物) と svabhava (無常性)は言語で表現する場合には異なるが存在レヴェルでは同一で あり、このことは誰でも直観のレヴェルでは認識しているけれども、概念化されない だけなのだ、という応答をする: (反論)別でない(同一の)対象を原因としていても、[Bの] 存在時点では、 無常性(anityata)はいまだ「所証(C)として知識のうちに生じていないの であるから、それ(B) の svabhava ではないことになるではないか。(応答) [Bよりも]後に生起してくるような、「無常性」とよばれる別のものがあるわ けではない。というのも、そのbhava (B) そのものが、ことばの上では異なる けれども、一瞬だけ存在するという性質をもつもの「即ち] 無常性(C)なので ある。 ......しかし凡夫は、[bhavaが] それ自身の原因だけからそのように (無常なるものとして)生ずるので、そ(のbhava)の一瞬だけ存在するという 本質 (svabhava) を直観しながらも、「消滅ではなく]存在性を知覚するが故 に「[滅することなく」このままずっと存在するのではないか」との懸念や[別 ではあるが」 類似するものが次々と生じることに目を奪われて、「無常性を] 確 -22 Page #24 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 信できない (54) このように、Dharmakirti は論理学レヴェルの svabhava(所証)を論ずる際にも、 容易に存在レヴェルの議論に立ち戻るのである。この点からも、この二つのレヴェル の bhava と svabhava の表裏一体性が窺われる。 さらにまた、推理によって帰結された無常性(所証)と実在との関わりはアポーハ 論の文脈でも次のように詳述されている。 (反論)相違(bheda)を特徴とするこの一般者(samanya = 概念)によって . 「[これとこれは] 同じ」と理解される[対象]は個別相なのか、あるいは全く 別のもの(一般相)なのか。もし個別相ならば、「直観の対象である個別相が] どうして概念の対象となろうか(ならない)。あるいはもし、別のもの(一般相) に基づいて[「同じ」と理解されるのであれば、一般相に]どうして効果的作用 があろうか(ありえない)。そして[推理によって概念的に理解された]無常性 は、個別相において理解されたわけではないのだから、実在の無常性そのもので はない。だから「それは]実在の属性ではない。 この反論に対し、Dharmakirti は、まず概念が潜在印象の本性に基づく迷乱にほか ならないことを確認した後で次のように述べる。 .[概念的]認識のうちに顕現したそれら対象が、それ (samanya)によって 「同じ」と理解されるのである。あるものからの排除によって顕現しているので あるから。[それは] 個別相ではない。それ(観念)のうちに「個別相は]顕現 しないから。そして、それら(対象)は、Xから排除されるだけでなく、さらに Yからも排除されるものとして、区別なき同じものとして顕現する。それ自体実 在ならざるものを、そのように(実在であるかのごとくに)観念によって示すの であるから、全くの誤った対象に対して、[人は] 同一基体性や普遍といった表 現活動を[営むのである]。 すべてこれ(概念)は、ほかならぬ個別相の直観に基づいて形成された潜在印 象によって作られた迷乱である。だから、それ(個別相)に連関して生じた観念 は、それならざるものが顕現しているだから迷乱である」とはいえ、ちょうど宝 石の輝きに対して宝石[そのもの」だと思って[走り寄る場合の]迷乱と同様に、 斉合性(avisamvada) がある。[他方、] それ以外(個別相と連関していない 単なる観念)には、ちょうど燈火の輝きに対して宝石だと思って走り寄る場合の ように、斉合性はない。「なぜなら、この後者の場合も、先の場合と同様に]そ れ(個別相)の相違が顕現しているとはいえ、見たままの特徴に従わずに、何ら かの共通性を概念的にとらえることによって、全く別の特徴を付託捏造するから である。従って、概念の認識対象であるものは効果的作用をなさない。 -23 Page #25 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 だからといって、個別相には無常性等がない、ということにはならない。なぜ なら、無常性と呼ばれるものが、生じ滅する (cala) 実在とは別に存在するわけ ではないから。一瞬だけ存するという属性をもっという点で、それ(実在)をそ のようなものとして認識するが故に、「これは無常である」「これには無常性が ある」と「言葉で区別して表現するにすぎない。] それ(個別相=実在)の属性 であることに降り立って(確認して)、種々の概念は、「存在としては同じ一つ の属性を]様々な属性として、[また、存在としては全く異なる諸個物の属性を] 同じ一つの属性として、[そしてまた、基体と属性を]異なるものとしてまとめ 示すのである。 また、それら(概念)が[存在上の] 基盤をもたない、ということにもならな い。それ(実在)のもつ相違の直観 (darsana) を基盤とするから。 また、「無常性が]実在の属性ではない、ということにもならない。それ(実 在)の本質 (svabhava) そのものをそのように(無常性等の属性として)こと ばで確認する (khyati) のであるから。 このように、Dharmakirti は、概念としての無常性と実在の無常性を関係づけてい る。「音声は無常である。作られたものであるから」という推理で証明される無常性 は、概念であって独自相(svalaksana) ではない。しかし、その無常性の概念は一 体何に基づくのかといえば、実在の直観を基盤として生じたのであり、また、実在の 不可分な本質的要素を「無常性」として概念的に確認するという形で、実在の無常性 と無常性の概念は密接に関係していると Dharmakirti は主張するのである。前者す なわち実在の無常性は《svabhava (b)》に、後者すなわち無常性の概念は、所証 たる svabhava に相当する。両者は不即不離、表裏一体の関係にあるといえる。 以上で存在レヴェルの svabhava と論理学レヴェルの svabhava (所証)の対応 関係を明らかにできたかと思う。 (56) <<2.43 svabhavahetu と karyahetu の統合; 本質的連関》 Dharmakirti は、anvaya と vyatireka を遍充関係 (vyapti)という一語でまと める。彼は、anvaya と vyatireka は論理的に等価 (equivalent)であることを熟 知していたから、どちらか一方で遍充関係は必要かつ十分に示されると考えていたが、 両方の併記という伝統に従ってか、それぞれについて、「anvaya の確定によって相 違因とそれに属する「推理]が否定され、vyatireka の[確定]によって不定因とそ れに属する不確定要素を残す推理 (sesavat) 等が「否定される]」と異なる機能を 認め、Dignaga と同様に、vyatireka の方を特に重視し、その議論にかなりの分量 を割いている。 (58) -24 Page #26 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (59) (60) 一般に、「BはCである」、「BがあればCがある」という全称命題は、どのよう にすれば論理的必然性をもって成立するだろうか。まず、実際の個々の具体的事例 (同類例、sapaksa) からの帰納によって、直接に anvaya として全称化されるのだ、 とは考えられない。なぜなら、時間的空間的なすべての事例を検討することは経験的 に不可能であるから。それならば、全称化されるためには、「CでなければBでない」、 「CがなければBはない」という vyatireka が確かめられればよいのではないか、と 考えられる。そこで、vyatireka はどのようにすれば確定されるのか、その方法が問 題となるのである。この点について、Dharmakirti の師 ISvarasena は、赤松 [1984] の説明するように、異類例 (vipaksa)に所遍(vyapya)が見られないこと (adrsti, adarsana)そのものが確定手段 (pramana)になると主張したが、Dharmakirti は それを徹底的に批判し斥けるのである。IŠvarasena 説は本論文の主題ではないが、 Dharmakirti の批判の骨子が彼の anupalabdhi 理論にあった点は、ここで確認し ておく必要がある。すなわち Dharmakirti によれば、時間的空間的あるいはその本 性として隔たっているもの(desakalasvabhavaviprakrsta)には知覚の条件が備わっ ていないので、それが実際に存在していても知覚されることはないから、限られた数 の否定的実例 (vipaksa) に所遍 (vyapya) が見られないからといって、それだけを 根拠として、どんな場合でも必ずそうだと全称化することはできない。しかしそうで あれば、一体いかにして論理的関係の必然性は保証されるのか。 のちに Dharmakirti は、HB の中で「svabhavahetu の場合、anvaya は、所証 属性が実在レヴェルでは「能証属性と]同一である点で、『能証属性の存在だけに随 伴する』と成立することによって確定(決定)される。そしてそ(の成立)とは、所証 の純粋矛盾概念に証因が[存することを]拒斥する知識手段の適用(sadhyaviparyaye hetor badhakapramanavrttih) である」と述べる。ここに初めて、反所証拒斥論証 (badhakapramana) の概念が導入されたわけである。この HB の立場では、vyatireka 重視の態度さえ完全に克服され、anvaya の確定は直接的に badhakapramana によってなされるのである。そして、これは VN にも受け継がれて、「この(svabhavahetu の)場合、遍充は[所証概念の]純粋矛盾概念に[証因が存することを]拒 斥する知識手段の提示によって成立する」とされた。そこでは事実上喩例がその意義 を失い、不要となる。周知のように、これが Ratnakirti 等の後期仏教知識論学派 に継承されて、いわゆる「刹那滅論証」として精緻を極めるに至る。HB, VN にお ける後期 Dharmakirti はその創始者であった。 しかし、Dharmakirti の初期の著作 PVSV には、このような badhakapramana はまだ導入されていない。ここで彼は Dignaga 以来の、いわゆる「外遍充論」の立 場に立つ。一般に外遍充論は、当該主題以外の具体的な喩例においてまず帰納された (61) (63) - 25 - Page #27 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 遍充を、次に当該主題に適用して結論を引き出すという推理構造をもつ。遍充は喩例 において示されるのである。さきに、遍充関係の確定のためには vyatireka こそが 重要であるが、その vyatireka は異類例に所遍が見られない(adrsti)という具体 的・経験的な方法では確定され得ないことを確認した。では、badhakapramana を導 入する以前の PVSV における Dharmakirti は、どのようにしてその論理的必然性 を根拠づけるのであろうか。 彼は、それを bhava と svabhava という存在の構 造そのものに求め、そしてその構造を示すのが喩例なのだ、と主張する。これこそが 本質的連関 (svabhavapratibandha)の理論なのである。Dharmakirti は、単に見 られないことだけでは vyatireka は決して成立ないと繰り返し力説した後で、次の ように自己の立場を表明する: 「従って、それ(bhava、証因)だけに関係する(随順する) svabhava(所証) は、止滅すると、] まさにその bhava (証因)を止滅させるにちがいない」 (=v.23abc)。例えば、樹木 (svabháva、所証)は、[止滅すると] シンシャ パー樹(bhava、証因)を「止滅させる]。 ある特定の枝振り等をもつものが そのように(シンシャパー樹であると) 一般に承認されているのだから、それは それ (bhava、シンシャパー樹)の svabhava である。だから、自身の svabhava を捨てた後に、どうして bhava が存在しようか(しない)。まさにその同じ svabhava が bhava なのであるから。このように、それ(bhava、証因)は、本質 的連関の故に [svabhava (所証)を]逸脱しないのである。 「あるいは、原因は[止滅すると]結果を止滅させる。逸脱がないからである」 (=v.23cd)。原因は、止滅すれば、結果を「止滅させる]。さもなくば、それ (結果、煙)はそれ(原因、火)の結果とはいえまい。一方、因果関係は、成立 していれば、「結果の] svabhava を[原因のみに対して]限定する。 このように、二通りの本質的連関の故にこそ、否定(的関係)が「成り立つの である」。 二通りの本質的連関について再度確認しておこう: 従って、本質的連関の故にこそ、証因は所証を知らせる。そしてそれ(本質的 連関)は、同一性 (tadbhava) あるいは因果性 (tadutpatti) を特徴とする。 まさにそれ(本質的連関)こそが、論理的必然関係 (avinabhava) なのである が、「それは] 同類例と異類例によって示されるのである。既出(n.46) ここで、本質的連関の特徴とされる tadbhava および hetubha va について触れてお きたい。まず hetubhava が、tadutpatti と同様、「因果性」(karana→karya) を 意味する術語であると解釈すべきことは《2.33 》に述べた。次に tadbhava である が、これも tadutpatti と同様に証因に視点を据えて 「[証因が]それ(所証)であ -26 Page #28 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (65) (66) (67) ること」を意味する場合と、hetubhava と同様に 所証に視点を据えて「[所証は証 因の]それ(本質、syabhava)であること」を意味すると考える方がよい場合があ り、詳しく分析することは可能であるが、桂[1986]の指摘するようにイディオマティッ クな術語として、「同一性」を意味すると解釈するのが自然であろう。tadátmatva, tadatmya も同義である。 Dharmakirti の場合、「同一性」は、「Xの(genetive)、Xだけに随伴するY に対する(locative)同一性」という方向を伴う関係である点を忘れてはならない。 論理的必然性の方向を伴うこの関係は、、まず第一義的には概念レヴェルで成立する 関係であろう。他方、存在(実在)レヴェルでの関係はどうかといえば、PVSV の 場合、全く異なる二概念(証因・所証)が無相違(abheda)と表現されているにす ぎない。従って、この無相違という同一性が、実在レヴェルでも、何らかの方向を伴っ ているかどうかは、解釈の分かれるところであろう。もし、“bhava⇒ svabhava" と いう推理を保証するような方向性が、概念的なものにすぎず、実在レヴェルでは成立 しないとすれば、その場合には、なぜ逆の方向の推理には必然性がないのか、存在レ ヴェルでその根拠が問題となるであろう。ところでこの方向性を伴うと解釈し得る "tadatmya" が NB II , S.22 においては<実在レヴェルの関係>とされている (vastutah tadátmyat)。従って、PVSV における bhava と svabhava の間の実在レ ヴェルの「無相違」も、単なる無相違ではなく、“bhava→svabhava” という推理の 方向性を保証するような同一性と理解したい。もしこのように理解できるならば、存 在レヴェルで bhava(存在物)はそれ自身の本質 (svabhava)において確定されて いるが故に、論理学的も“bhava→svabhava” という推理が根拠をもつのだ、と理 解できよう。 このような同一性と因果性を特徴とする本質的連関は、《2.33》でも述べたように、 「存在レヴェルの関係を基盤とする」という視点を織り込んで従来の術語「不可離関 係 (avinabháva)」を言い換えた Dharmakirti特有の用語である。実在より生じた という点で実在との関係 (vastutpattya tatpratibandhah)のある概念には実在と の斉合性がある。存在物と関わりをもち、かつ論理的必然関係を述べる関係概念、そ れが「本質的連関」なのである。それは、vyatireka を確定するものとしての「証因 が異類例に見られないこと」というく認識上の根拠>の不十分さを批判する形で述べ られる。そして、「[本質的]連関がなければ、anvaya と vyatireka は確定されな い」と言われるように論理的必然関係の必要条件としての性格を備える一方で、また 「本質的連関があれば、BはCを逸脱しない」等と言われるように必然性を保証する 十分条件としての性格も備えている。 実在を肯定的に論証する証因 (vastusadhana) である svabhavahetu と karyahetu (68) -27 Page #29 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 を一貫するのは、このようにそれぞれの論理的必然関係を「本質的連関」として統合 する点だけではない。証因と所証の関係を bhava と svabhava の関係から捉える点も 同じである。即ち、svabhavahetu の場合は、証因と所証がそれぞれ bhava と svabhava とされ、他方、karyahetu の場合は、結果と原因はそれぞれの svabhava を介 して限定的な関係にあるとされる。先に述べたように、結果も bhava の一種であっ た(《2.32》 参照)。Dharmakirti にとって、ある bhava(ある性質・属性を帯びた ものとして概念化された存在物)が、証明されるべき何かあるもの(所証)を知らせる 証因となる場合、その所証がそれ自身の svabhava である場合(bhava→svabháva) と、それ自身の svabhava を介してそれを限定する他の svabhava をもつもの(原 因)である場合 (karya-karana) の二通りがあったのである。異なる事物の間に成 り立つ唯一の原理である因果性 (tadutpatti)も、個々の事物を内的に規定し、それ をそれたらしめている原理としての svabhava なしにはありえず、この点で同一性 (tadbhava)と密接に関係する。以上のような事情から、svabhava(所証)に対する 証因は“bhava” でなければならなかったのである。この意味で彼の論理学は、同一 性(svabhavahetu の場合)と因果性 (karyahetu の場合)という二大原理から成る <Page #30 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 原因だけから、作られたものは一瞬しか存在しないという属性(無常性)をもっ て[瞬時に]滅するものとして生じたのである。[もし、自身の原因]以外のも のにもとづいて[滅するのであれば、同一性 (tadbhava) が否定されてしま うからである。 以上より、“drstanta→pramana→tanmātranubandha→tadbhava (=svabhavapratibandha) という構造が読み取れる。そしてこれに続いて、彼は karyahetu にお ける因果性も簡潔に説明する: 因果性 (hetubhava)は、それ(原因)が存在するときにのみ「結果は]存在 [し、原因がないときには存在しない」という [認識手段(pramana)] にもと づいて、喩例によって示される。それは別個な対象の間の関係である。 そして同一性と因果性をまとめる: 1.このように、同一性あるいは因果性が一般に承認されれば、「無常性がなければ 所作性もない」「火がなければ煙はない」 [と否定的遍充関係が成立する。]すな わち、それ(所証)はそれ(能証)の本質 (svabhava)であるか原因であるか のいずれかである。自身の本質や原因なしにどうして[能証が]存在しようか (しない)。だから、異類例における否定的遍充関係は、主題(ášraya, = dhar min) が存在しなくても成立する。 Dharmakirti の遍充理論において、喩例の要不要は中心的な問題ではなかったと思わ れる。喩例は本質的連関 (svabhavapratibandha) を知るための<手段>に過ぎない のだから、それが理解されれば、喩例はその役割を果たし終え、もはや不要となる。真 に重要なのは遍充関係 (vyapti) の方であり、それと同義の不可離関係(avinábhāva)、 本質的連関である。それは、存在レヴェルでの bhava と svabhava のあり方を概念的 にとらえなおしたものであり(《2.33》 )、存在レヴェルで svabhava は《svabhava (b)》という同類(sajatiya) に共通な機能を有するが故に、同じ語で示される同種 の概念の均一性―推理が成立するための前提条件の根拠を存在レヴェルで保証 される(《1.2》)。従って、当該主題の遍充関係は、限られた喩例によって示され た関係ではあっても、存在レヴェルに根拠をもつものとなりうるのである。 しかしながら、遍充の確定という点において、Dharmakirti 自身の推理論は PVSV の段階ではまだ完成したわけではなかった。遍充関係を<保証>するものが本質的連 関であったとしても、では遍充関係を論証し確定する<手段>は何かと問うならば、 PVSV の中に明確な統一見解はない。上に引用した箇所で、「同一性は喩例におい て示された pramana によって示される」との構造が示されたものの、その直後に は「同一性と因果性がわかった者には喩例は不要である」と Dharmakirti は内遍充 論を思わせる喩例不要の方向も示唆しており、喩例の立場がきわめて微妙である。こ -29 Page #31 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 の点で、遍充の確定も曖昧さを残しているといえる。喩例さえ不要との立場こそが、 Dharmakirti 自身の本懐ではなかったかと推測されるものの、しかしその場合、遍 充がいかにして知られるのか、理論的に不明確であると言わざるを得ないのである。 彼は HB にいたり、svabhavahetu における過充関係の確定手段として "badhakapramana" を導入する。ここに我々は彼の遍充理論の発展を確認しうる。 他方、karyahetu の場合はどうかと言えば、HB における遍充関係の確定手段の理論は、既に PVSVに現れていたものと基本的に同じであると言える。 (77) <<2.45 証因としてのsvabhava》 最後に、「三種の証因」のひとつとしての svabhava について考察してみよう。 序に述べたとおり Dharmakirti は、証因について、それを所証 (svabhava)との関 わりでは bhava とする一方で、その bhava に相当するものを「三種の証因」として はPVSV の冒頭より "svabhava" とした。 Steinkellner は、論理学的文脈での svabhava が、実在の本質的属性の概念 (concept of essential property)である点を解明し、“essential property, wesentliche Beschaffenheit" (svabhava) & "svabhava is that property (dharmah, bhavah) of something which is not caused by something else, but is thus given with the thing itself"と説明する。この説明は納得できるものであるが、これで十分であろ うか。 実在を肯定的に論証する証因として共通する karyahetu と svabhavahetu を根本的 に区別するのは、前者の場合は、存在レヴェルで関係する対象が所証と異なるのに対 して、後者の場合は、異ならない、すなわち同一である点に存する(《2.2》、《2.44》)。 そうであれば、この「同一」という視点が三種の証因としての svabhava (svabhavahetu)という語にも含まれているはずであろう。事実、Dharmakirti は v.31 で "svabhava" という語を同一性 (tadátmya)の意味で用いている。厳密に言えば Steinkellner 説のとおり、Stcherbatsky 訳 "identity" が関係表示語であり、他方、 証因は関係ではないから "svabhava=identity" と理解するのは適切さを欠くかもし れない。しかしそれだけの理由から、svabhava のもつ identity の意味合いを全面 的に否定することはできない。 "svabhava" を「自体」「同一物」「同じもの」と 取るのは十分可能である。 このsvabhava (証因)には、さらにもう一つの側面がある。証因と所証の同一性 は存在レヴェルで究極的には同一の本質 (svabhava)と関係するという点に存する ことである。この意味で理解するならば、svabhava(証因)とは、存在レヴェルで は所証と同一の svabhava(本質)と関係する証因ということになろうが、この場合 -30 Page #32 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (80) でもやはり「同一」という視点が不可欠である。 この二点より、svabhavahetu とは「[存在レヴェルの]本質において[所証と] 同一である証因」であると理解するのがよいと思われる。しかし、証因が一方では "bhava" (所証との関係から)といわれ、また一方では "svabhava" (三種の証因 として)といわれるのは、やはり統一性があるとは言いがたい。PVin, NB をへて、 序で紹介した HB の定義に移行して行った背景として、筆者は二つの要因を想定し たい。一つはこの用語上の不統一という問題点である。そしてもうひとつ、さらに重 要な問題点として svabhavahetu の例が“simsapa⇒ vrksa"から"krtaka = anitya" へと実質的に移行した点を無視できない。すなわち PVSV においても後者の例の場 合には所証は“svabhava” なのである(例えば《2.44》引用の議論など)。その理 由としては“simsapa" の場合と異なり“krtaka" は所証すなわち“anitya" と同延 の概念である点を指摘できよう。ただし、PVSV 冒頭に展開される《 bhava と svabhava の論理学》に限って言えば、syabhavahetu の主眼が刹那滅論証にあったとし ても、“krtaka = anitya" の推理はむしろ特殊なケースであると考える方が、彼の 推理論全体を体系的に理解しやすい。 第3章 結論 以上、Dharmakirti の PVSV にみられる存在論・認識論・論理学に関わる多様 な議論のレヴェルを便宜的に三つに区分したうえで、それらの関係を考察することに よって、各レヴェルの再統合を試みてきた。ここで、第1章で確認した存在レヴェル と概念的認識レヴェルの議論およびその関係を踏まえて、第2章の論理学レヴェルの 議論を中心に本論文の結論をまとめると、次のようになる。 「AはCである。Bであるから」という svabhavahetu の形式において、C(所 証、svabhava)との関わりで証因 (hetu)と同格の bhava は、存在物をある特定の 属性(性状、在り方)として認識した概念、ある特定の属性として概念化された存在 物、現象を意味する。 ある存在物(bhava)からあるものを推理する場合、証因と所証はそれぞれの関係 する存在レヴェルの対象が異なるか否かによって二分される。まず異なる場合には、 存在レヴェルの因果関係を把握する karyahetu のみが正しい証因である。それは、 「結果」と想定される存在物から、その svabhava を介してそれを生み出す他の svabhava をもつもの(原因)を推知せしめる証因である。他方、対象が異ならない (同一の)場合には、「それ自体」が 証因となる。それは、存在レヴェルで同一であ -31 Page #33 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 るそれ自身の svabhava (本質)そのものを推知せしめる。すなわち svabhavahetu とは、存在レヴェルの本質において所証(sadhya)と同一である証因である。 このように Dharmakirti は、bhava と svabhava の関係から実在と密接に関係 する論理学を確立した。かれは、効果的作用 (arthakriya) と、ものの本質 (svabhava) の概念を機軸として、実在と概念、語、実践的活動(行為)を、相互に関係し合う一 連の構成要素として総合的に関係づけている。 かれの思想全体の中で、bhava と svabhava の二語は、異なる議論の文脈を超え て統一的に使用されている。第2章の論理学的レヴェルから見ると、存在レヴェルの svabhava は、存在物のもつ異類からの一様な相違《svabhava (b)》(第1章)とし て概念と関係する。そして、「実在の在り方に対応しそれを基盤とするが故にその妥 当性を保証される」という視点を織り込んだ論理的必然関係(遍充関係)が本質的連 関 (svabhavapratibandha)である。 しかし、PVSV では喩例の位置付けに統一がないため、karyahetu の場合と異な り、syabhavahetu の場合には、遍充関係を理論的に確定する手段が明確にされず曖 昧なままに残された。この点に、反所証拒斥論証 (badhakapramana) の導入 (HB) の必要な理由のひとつがあったと思われる。 《テキスト》 HB : Hetubindu; "Dharmakirti's Hetubinduh, Teil I Tibetischer Text und re konstruierter Sanskrit-Text", ed. E.Steinkellner, Wien 1967. NB : Nyayabindu; "Pandita Durveka Misra's Dharmottarapradipa", ed. D. Malvaniya, Tibetan Sanskrit Works Series 2, Patna 1955. PVI : Pramanavarttika, svarthanumana. PVIII : Pramanavarttika, pratyaksa.(戸崎 [1979] に従う) PVSV : Pramanavarttikasvavrtti; "The Pramanavarttikam of Dharmakirti, the First Chapter with the Autocommentary", ed. R.Gnoli, Serie Orientale Roma 23, Roma Is.M.E.O. 1960. PVSVT: Pramanavarttikasvavrttitika of Karnakagomin. "Acarya-Dharmakirteh Pramanavarttikam (Svarthanumanaparicchedah) svopajnavrttya Karnakagomiviracitaya tattikaya ca sahitam." ed. Rahula Samkrtyayana, Allahabad 1943 (repr. Kyoto 1982) . PVin I : Pramanaviniscaya, svarthanumana. "Dharmakirti's Pramanaviniscayah, Zweites Kapitel: Svarthanumanam, Teil I Tibetischer Text und Sanskrittexte", ed. E.Steinkellner, Wien 1973. VN : Vadanyaya; "Dharmakirti's Vadanyaya with the Commentary of Santa raksita", ed. R.Sankrtyayana, Appendix to Journal of the Bihar and Orissa Society 21,22, Patna 1935-1936. -32 Page #34 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 《参照文献》 , 赤松明彦 [1981] :[Dharmakirti の推理論——Apoha 論との関連から――」、『印度学仏教学研究』 29-2, pp.908-905. [1982]: [Nyaya 学派の apoha 論批判」、『印度学仏教学研究』30-2, pp.936-931 [1984]: 「ダルマキールティの論理学」、平川・梶山・高崎編『講座・大乗仏教9 認識論 と論理学』春秋社、pp.183-215. 稻見正浩 [1987]: 「ダルマールティにおける「因果関係の決定』」、広島哲学会『哲学』39、pp.131-147. 桂紹隆 [1983]: 「ダルマキールティの因果論」、『南都仏教』 50, pp.96-114. [1984] : 「ディグナーガの認識論と論理学」、『講座・大乗仏教 9 } pp.104-152. [1986]: 「インド論理学における遍充概念の生成と発展」、「広島大学文学部紀要』 45 特輯号1 金沢篤 [1985] : [Prakaranapancika に於ける pratibandha」、『印度学仏教学研究』 33-2, pp. 796-790. 戸崎宏正 [1979] : 『仏教認識論の研究(上巻)』大東出版社 服部正明 [1973,75] :[Mimamsaslokavarttika, Apohavada 章の研究 (上)(下)」、『京都大学文 学部研究紀要』 14, 16, pp.1-44, 1-63. 福田洋一 [1984]: 「ダルマキールティにおける論理の構造への問い」、『印度学仏教学研究』33-1, pp.347-345. 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(2) paksadharmas tadamsena vyapto hetuh / (3) (2,12-13); vyaptir vyapakasya tatra bhava eva, vyapyasya va tatraiva bhavah / (4) cf.PVI, v.15. Dharmakirti00 kr 210 Tit E. Steinkellner, "On niscita grahana", Tucci Festschrift M. (5) (2,14-17); ta ete karyasvabhavanupalabdhilaksanas trayo hetavah / yathagnir atra dhumat, vokso 'yam simsapatvat, pradesavicese kvacin na ghata upalabdhi laksanapraptasyanupalabdheh / (6) MAM "karyahetu" "svabhavahetu" la Karmadharaya A b o Steinkell ner(1967] p.96, n.45 BROWE "svabhavahetu" "svabhave hetuh" Z locative tatpurusa 複合語として解釈する Hayes 説は納得しがたい。Hayes[1987] p.323 参照。 (7) #[1984] p.124 DR. (8) [1986] p.95 E . (9) (2,19-21); tatra dvau vastusadhanav ekah pratisedhahetuh / svabhavapratibandhe hi saty artho 'rtham na vyabhicarati / sa ca tadatmatvat / (3,3-4); karyasyapi svabhavapratibandhah / tatsvabhavasya tadutpatter iti / ta $ Nyayabindutika, ed. Malvaniya: (109,2-3), Tarkasopana, ed. Tucci: (294,11-12), PVSVT: (22,19) 等は "vastusadhana" の “vastu”を否定 (pratisedha)に対する肯定 (vidhi)の意味と # 3D Eco XAVET "vastu" OBORIZ TEJ TR [##J DODAT 118 * 2. ALTHO) ter *2 : (100,28)-(101,1); tasmad dviprakaraiva vastuvisayanumitih karyalinga svabhavalinga ca/ - 34 - Page #36 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (10) Steinkellner[1971] p.206, p.209, [1974] pp.123-124. (11) HB (5*,10-14); tatra sadhanadharmabhavamatranvayini sadhyadharme svabha vo hetuh, aparaparavyavittibhedena dharmabhede 'pi vastuto lingisvabhava eva. hetusvabhave 'nvayavyabhicarabhaval laksane tanmatranvayena visesanam pa ramatapeksam. pare hi ...... (12) VN (9,5-6); tena yat sat krtakam va tad anityam eveti sidhyati / tavata sadhana dharmamatranvayah sadhyadharmasya svabhavahetulaksanam siddham bhavati/ (13) NBI, s.15; svabhavah svasattamatrabhavini sadhyadharme hetuh / PVin II (24*, 10-11); de yod tsam dan rjes 'brel can / / bdag nid gtan tshigs ran bzin *yin / この PVin の原文については梵文写本の校訂出版が快たれる。ちなみに Steinkellner (PVin II ,p.69) IZPITSPF (Parallelstellen) ZLE (i) "tadbhavamatrad dharmini svabhavo hetur atmani" (Vadanyayavipancitartha; 13,10f.) * d e (ii) "hetuh svabhave bhavo 'pi bhavamatranurodhini" (PV I , v.2cd) の二つを指摘する。Steinkellner の用いる "P(arallelstellen)" の意味については同書 p.14 参照。(i) は Lindtner[1984] n. 47 は韻律破格を犯しているという。また (ii) は PVI の記述であって、PVin の原文とし ては比定しがたい。Lindtner 同論文 p.174 は解決策として "Ladbhavamatranurodhe......" との還元を提示している。しかし、この Lindtner 説も、suffix “can(-in)”の価値が還元 梵文に脱落している点、vipula 4 (repha)であるとしても caesura が第4シラブルにない 点、の二点から問題が残る。他に "tadbhavamatranyayini" の可能性も一応考えられる。 しかし、上掲 PVin 中の "ries 'brel can" が後続する散文では "rjes su 'brel ba can" と注釈され、後者は PVSVからの引用であることから“anurodhin” の訳語と判明する点、 t:HBTIT "sadhanadharmabhavamatravayini ......" si "sgrub pa'i chos kyi no bo tsam dan ldan pa can ni...... と訳されている点から、“tadbhāvamātranvayin" と の比定にも無理がある。 (14) hetuと同格の bhava は、Dharmakirti 自身によって svabhava の代用とされること もないわけではない。例えば v.197c の "karyabhavabhyam" の“bháva(hetu)は自 * 注(100,28) で "svabhava" と置き換えられる。また一般に、v.186 以下に再論される sva bhavahetu の議論では "hetu=svabhava" の図式が確定的であるように思われる。しかし その一方で、明らかに "hetu = bhava, sādhya=svabhavaとする箇所も少なくない。例 えば v.23abc に対する自注がそうである。本論文の意図は、後者のような場合を“hetu = bhava=svabhavaと読み替えることをせずに、あえてそのまま読むならばどのように理解 すべきかという点にある。 (15) PVI, v.2cd; hetuh svabhave bhavo 'pi bhavamatranurodhini // (Tib.: gtan tshigs ran bzin yod tsam dan // 'brel pa can gyi no bo yan //.PVSVT (29,1214); svabhave sadhye kimbhute bhavamatranurodhini hetusadbhavamatranurodhini (bhavo hetuh) svabhavo hetuh / (*の部分は写本余白の記述) S.D.Shastri ed. PVV (Manorathanandin; 259,5-8); bhavo 'pi svabhavo 'pi hetuh svabhave sadhye kidrse ...... (16) sarve bhavah svabhavena svasvabhavavyavasthiteh svabhavaparabhavabhyam yasmad vyavsttibhaginah // cf.(24,24); sarva eva hi bhavah svarupasthitayah / (25,13-15); tasmad ime bhavah sajatiyabhimatad anyasmac ca vyatiriktah svabhavenaikarupatvat / (17) (24,24-25), (39,20-21), (56,18), (90,24) など。 - 35 - Page #37 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (18) (32,3-4); yady apy amsarahitah sarvato bhinnasvabhavo bhavo 'nubhutas ta thapi...... (19) PV I , v.45ab; tasmad drstasya bhavasya drsta evakhilo gunah / (20) (38,17-24); buddhih khalu tadanyavyatirekinah padarthan asrityotpadyamana vikalpika svavasanaprakstim anuvidadhati bhinnam esam rupam tirodhaya pratibhasam abhinnam atmiyam adhyasya tan samsrjanti samdarsayati / sa caikasadhyasadhanataya anyavivekinam bhavanam tadvikalpavasanayas ca prakrtir yad evam esa pratibhati tadudbhava / sa ceyam samvstih samvriyate 'naya svarupena pararupam iti / te ca taya samvitabhedah svayam bhedino 'py abhedina iva kenacid rupena pratibhanti / (21) (84,2-6); tasmad visesa eva janaka na samanyam / tatas ta eva vastu / yasmat / "sa paramarthiko bhavo ya evarthakriyaksamah/" (=PV I, 166ab) idam eva hi vastvavastunor laksanam yad arthakriyayogyata'yogyata ceti...... (22) PVI, v.73; ekapratyavamarsarthajnanadyekarthasadhane bhede 'pi niyatah kecit svabhavenendriyadivat // (41,3-6); ...... evam simsapadayo 'pi bhedah parasparananvaye 'pi prakrtyaivaikam ekakaram pratyabhijnanam janayanti anyam va yathapratyayam dahanagshadikam kasthasadhyam arthakriyam, na tu bhe davisese 'pi jaladayah, srotradivad rupadijnane / PVSVT (178, 10ff.) BRO (23) (56,16)-(57,7); "ekapratyavamarsasya hetutvad dhir abhedini / ekadhihetubha vena vyaktinam apy abhinnata //" (=v.109) niveditam etad yatha na bhavanam svabhavasamsargo 'stiti / tatra samsrstakara buddhir bhrantir eva / tam tu bhedinah padarthah kramena vikalpahetavo bhavanto janayanti svabhavata iti a ity ucyate, jnanadeh kasy acid ekasya karanad atatkarisvabhavavivekah/ tad api pratidravyam bhidyamanam api prakrtyaikapratyavamarsasyabhedavaskandino hetur bhavad abhinnam khyati / tathabhutapratyavamarsahetor abhedavabhasino jnanader arthasya hetutvad vyaktayo 'pi samspstakaram svabhavabhedaparamartham svabhavata ekam pratyayam janayantity asakrd uktam etat / tasmad ekakaryataiva bhavanam abhedah / FitA [1982] pp.936,935-934 参照。cf.戸崎[1979] pp.259-260, vv.161-162. (24) PVIIには、勝義には独自相のみが正しい認識の対象であるが、それをそれ自身のそうに よって認識する場合と一般相によって認識する場合があるから、認識の対象は二種であると 認められるとの言明がある。PV II, v.53d, 54cd; meyam tv ekam svalaksanam // ...... tasya svapararupabhyam gater meyadvayam matam //. 戸崎 [1979] p.124 以下 参照。周知のように、後代ダルモッタラは認識の対象を直接対象(grahya) と活動の対象 (pravrttivisaya) としての確認対象(adhyavaseya)に二分する。そしてそれはジュニャー ナシュリーミトラ (Vyapticarca)とラトナキールティ(Vyaptinirnaya)に継承され、推 理の基礎づけに用いられることになる。さらにモクシャーカラグプタ (Tarkabhasa)は後 者の確認対象すなわち一般相を個物の概念 (urdhvatalaksana) と種類の概念(tiryaglaksana)とに分類する。cf.Kajiyama [1966] p.59f. このような認識対象の分析の歴史は上記 の PVII の記述に端を発すると考えられる。そして我々の svabhava (a)(b)の二側面に もその記述と同内容の先行議論と考えられる。とりわけ svabhava (b)は推理論と密接に関 わる。この点は、例えば PV I, v.109と同義の PV I , v.73 を引用するアルチャタの言明 (HBT p.22) が svabhava (b)を推理論と積極的に関連づけようとするものであるという 事実からも確認し得る。このようにダルマキールティ以降、概念的認識と独自相の関係は個 , -36 Page #38 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 的連続(samtana)における活動の対象という観点から論じられる場合と推理論との関係で 論じる場合の二種類の発達があり、どちらの場合もダルマキールティ自身をその源流とする と考えられる。その詳細については別稿を準備中である。 (25) 桂[1983] pp.97-100 参照。この二つの側面は、同論文に詳説されるように、様々なレヴェ ルで理解できる。また、arthakriya の二側面を「あるもの(例、水)が認識を生み出す意 味での arthakriya をもち、認識主体がその水に目的達成(例、渇きを癒す)を求めて走り 寄るのだ」と理解するならば、厳密な瞬間的存在の次元でその水は同一ではあり得ず、arthakriya の二側面は、全く別個な文脈で用いられる無関係な二側面にすぎないものとなる。そ こでダルモッタラは個的連続(samtana)の視点を導入するが、これは必ずしもダルマキー ルティ自身の考えとは言い切れないように思われる。筆者は、この二側面は別個なものでは あり得ず、同じひとつの実在のもっ二側面としての一貫性を備えたものであると理解してい る。すなわち、同じひとつの実在が認識を生み出す能力をもつ一方で、その同一瞬間にもし 走り寄れば渇きを癒す効果をも能力として備えており、実際に arthakriya のどちらの側面 になるかは、条件に応じて決定される、と。cf. n.22, 24. (26) (87,1-3); sa evarthas tasya vyavsttayo 'pare // tat karyam karanam coktam tat svalaksanam isyate / tattyagaptiphalah sarvah purusanam pravrttayah // (= vv.171cd-172), (89,2-4~9-12); sarva eva gaur asvad bhinno 'bhinno veti bhedam abhedam va prcchan visesam eva bhavasya svabhavakhyam adhikrtya pravartate / sa eva hi tathocyate / ...... yo 'syatma'nanyasadharano yam puraskrtya puruso visistarthakriyarthi pravartate, ..... sa eva svabhavo yathasvam sabda codito na dravyatvadi samanyam / (27) Pramanasamuccaya V, v.1; na pramanantaram sabdanam anumanat tatha hi tat/ ketakatvadivat svartham anyapohena bhasate // R 13 [1973] p.27 O** および n.49 参照。 (28) cf. (46,5-9); tad ayam sabdan api kvacin niyunjanah phalam eva kimcid ihitum yuktah/ tac ca sarvam tyagaptilaksanam istanistayoh/ tenayam istanistayoh sadhanam asadhanam ca jnatva tatra pravrttinivstti kuryam karayeyam veti sabdan niyunjita niyoge vadriyeta / (29) PVSV の中に展開する各テーマを超えて一貫して流れる思想があるとするならば、それ は svabhava および arthakriya の概念であり、認識論と行為論、宗教観をつなぐ架橋と して重要な役割を果たしていると筆者は理解している。この点からの詳細な論致は今後の課 題としたい。 (30) asaktam sarvam iti ced bijader ankuradisu / drsta saktir mata sa cet samvr tyastu_yatha tatha // 戸崎[1979] p.62. (31) Steinkellner[1971] pp.183-184. (32) (3,1-3); bhedo dharmadhamitaya buddhyakaraksto nartho 'pi, vikalpabheda nam svatantranam anarthasrayatvat / tatkalpitavisayad arthapratitav anarthapratilambha eva syat / (33) (44,6-14); anekarthabhedasambhave tadekarthabhedavidhipratisedajijnasay amtad eva vastu pratiksiptabhedantarena dharmasabdena samcodya buddhes tat hapratibhasanad vyatiriktam dharmam ivavisesenaparam asya svabhavam dharmi taya vyavasthapya pradarsyate / tavata cansena dharmadharminor bhedad bhedavativa buddhih pratibhati / na vastubhedat / ...... tathabhutabhedabahulyacodanaya vacanabhedah sadhyasadhanabhedas ca tatsvabhavasamasrayair dhar - 37 - Page #39 -------------------------------------------------------------------------- ________________ . ?*-1ITD#A mapratibhasabhedais tatsvabhavapratipattaye kriyata iti / cf.vv.61-62. (34) cf. Nyayabindutika of Dharmottara, ed. Malvaniya: (109, 1-5). Tarkasopana of Vidyakarasanti, ed. Tucci: (294,10-15). (35) (3,8-9); avyabhicaras canyasya ko 'nyas tadutpatteh, anayattarupanam saha bhavaniyamabhavat / (36) (4,1-4) + (n.14) #BR. (37) (3,9-19); yadi tadutpatteh karyam gamakam, sarvatha gamyagamakabhavah, sarvatha janyajanakabhavat / na / tadabhave bhavatas tadutpattiniyamabhavat / tasmat / "karyam svabhavair yavadbhir avinabhavi karane" / tesam, "hetuh " (=v.2abc) tatkaryatvaniyamat tair eva dharmair ye tair vina na bhavanti / amsena janyajanakatvaprasanga iti cet / na / tajjanyavisesagrahane 'bhimatatval lingavisesopadhinam ca samanyanam / avisistasamanyavivaksayam vyabhicaran nesyate / (38) [1984] p.128. (39) Steinkellner[1974] p.124, n.24. (40) (21,24-26); yadi tarhi darsanadarsane nanvayavyatirekagater asrayah, katham dhumo 'gnim na vyabhicaratiti gamyate / 異類例に見られないことから否定的遍充関 DibertsZ1 Isvarasena 21tit, TWA [1984] # 0 Steinkellner[1966] R. (41) (22,2-4); yesam upalambhe tallaksanam anupalabdham yad upalabhyate, ta traikabhave 'pi nopalabhyate, tat tasya karyam tac ca dhume 'sti. "hetusamagri" 102112lt, Steinkellner(1971), p.185, n.26 R. tit. Dharmakirti0 COX #LT, H XEROWEETEICOWE CENAJ (Dharmottara) CENA (Jnanasrimitra, Arcata) 12 stutto #mnit Kajiyama(1963) pp. 1-15 R. tabb URELE [1987] Dito (42) (22 0); "sa bhavams tadabhave tu hetumattam ilanghayet //" (=v.34cd) sakrd api tathadarsanat karyah siddhah, akaryatve 'karanat sakrd apy abhavat / karyasya ca svakaranam antarena bhave 'hetumattaiva syat / na hi yasya yam antarena bhavah sa tasya hetur bhavati / bhavati ca dhumo 'gnim antarena, tan na taddhetuh syat / (43) (22,20)-(23,9); "nityam sattvam asattvam vahetor anyanapeksanat / apeksato hi bhavanam kadacitkatvasambhavah //" (=v.35) sa hi dhumo 'hetur bhavan nirapeksatvan na kadacin na bhavet / tadbhave vaikalyabhavad, istak alavat / tadapi va na bhavet, abhavakalavisesat / apeksaya hi bhavah kadacitka bhavanti/ bhavabhavakalayos tadbhavayogyata'yogyatayogat, tulyayogyata'yogyatayor desakalayos tadvattetarayor niyamayogat / sa ca yogyata hetubhavat kim anyat / tasmad ekadesakalapariharenanyadesakalayor vartamano bhavas tatsapekso nama bhavati / ..... tan niyatadesakalatvad dhumo yatra drstah saknd, vaikalye ca punar na drstah, tajjanyo 'sya svabhavah, anyatha saknd apy abha vat / sa tatpratiniyato 'nyatra katham bhavet / bhavan va na dhumah syat / (44) (23,9-13); tajjanito hi svabhavaviseso dhuma iti / tatha hetur -api tathabhuta karyajananasvabhavah / tasyanyato 'pi bhave na sa tasya svabhava iti sakrd api na janayet / na va sa dhumo 'dhumajananasvabhavad bhavat / tatsvabhavatve ca sa evagnir ity avyabhicarah / "svabhavavicesa" D it anupalabdhi - - 38 - Page #40 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 論でも用いられる(NBII, ss.13-14 参照)。 (45) (23,16); dhumahetusvabhavo hi vahnis tacchaktibhedavan / (=v.37ab) (46) (17,12-14); tasmat svabhavapratibandhad eva hetuh sadhyam gamayati / sa ca tadbhavalaksanas tadutpattilaksano va / sa evavinabhavo drstantabhyam pradarsyate/ (18,3-5); hetubhavo va tasmin saty eva bhavad iti drstantena pradar syate 'rthantarasya / (47) 福田[1984] p.347. ここで "svabhavapratibandha" をめぐる研究史を筆者の理解し得 た範囲で概観しておくと次の如くである。 Steinkellner[1971, 1984] -svabhavaは「存在レヴェルのsvabhava」を意味しpratibandhaはsambandhaとほぼ同義の「関係」を意味する。複合語全体は instrumental tatpurusa Z LE "Verknupfung durch den Svabhava" ZRt. svabhavapratibandha と avinabhava(=vyapti) を同義とせず、両者を区別して、前者は後者の実在上の基盤で あるとする。 Matsumoto [1981] 複合語の後分 pratibandha に注目する。pratibandha は karyahetu の場合には niyama (limitation)を意味し、複合語全体は genetive tatpurusa と解 して "limitation of its (=karyasya) properties”と訳す。他方 svabhavahetu の場合 には、pratibandha を anubandha とは逆の方向を示す関係表示語と考え、複合語全体を locative tatpurusa と解して "counter-connection with its (=bhavasya) essence" .と訳す。また tadbhava は「それ(hetu) を bhava としてもつ」との bahuvrihi 複合語、 tadatmyaは「それ(sadhya)を本質としてもつ」との bahuvrihi 複合語に解する。tadātmya を“identity" を意味する tatpurusa 複合語と解する Steinkellner 説には反対である。 金沢[1985] - tadatmya は bahuvrihi 複合語であるとの松本説を支持。(Prakaranapascikāそのものへの考察部分は省く。) 福田[1984, 1987] Steinkellner 説の svabhavapratibandha を「実在上の基盤」 とする点と svabhavahetu と karyahetu で「二通り」に解釈する点の不都合を指摘する。 svabhavapratibandha は「論理的指示関係」の確実性を保証するものである。「論理的指 示関係」は原因・結果、物と svabhava の間に、一方の無が他方の無を惹起するという関係 が成り立つことによってはじめて保証される。「被制約性」「無化の連動性」こそが svabhavapratibandha の性格規定である。 桂[1986] -tadatmya は存在レヴェルでの「同一性」を意味するのみならず、論理学 レヴェルでは「同定」「包摂関係」を意味する一種イディオマティックな語である。svabhavapratibandha lt Chetu Osvabhava < sadhya Osvabhava () pratibandha (W ) を意味し、Steinkellner 説とは異なり、複合語前分svabhava は第一義的には「普遍的概念」 を意味し、svabhava の二義性を介して第二義的に存在レヴェルの「本質」を意味するとす る。 (48) PVSVT (76,12-13); ほかならぬそれ[すなわち] 本質的連関は不可離関係と言われるも のであり、同類・類例の二つの喩例によって示される。sa eva svabhavapratibandho 'vinabhavakhyah sadharmyavaidharmyadrstantabhyam pradarsyate / (49) (6,22)-(7,1); yas tarhi samagrena hetuna karyotpado 'numiyate sa katham trividhe hetav antarbhavati / "hetuna yah samagrena karyotpado 'numiyate / arthantaranapeksatvat sa svabhavo 'nuvarnitah //" (=v.6) asav api yathasamnihitan nanyam apeksata iti tanmatranubandhi svabhavo bhavasya / tatra hi kevalam samagrat karanat karyotpattisambhavo 'numiyate, samagranam karyotpadanayogyatanumanat / yogyata сa samagrim atranubandhiniti svabhava -39 Page #41 -------------------------------------------------------------------------- ________________ *- LT10 JA bhutaivanumiyate / (50) Steinkellner(1984) p.462. (51) (24,14); ya eva bhavo bhavamatranurodhi svabhava ity ucyate / cf. Steinkell ner(1971] p.206. (52) (20,19)-(21,2); "arthantaranimitto hi dharmah syad anya eva sah /"(=v.33ab) na hi tasmin nispanne 'nispanno bhinnahetuko va tatsvabhavo yuktah / ayam eva khalu bhedo bhedahetur va bhavanam viruddhadharmadhyasah karanabhedas ca / tau cen na bhedakau tada na kasyacit kutascid bheda ity ekam dravyam visvam syat / tatas ca sahotpattivinasau sarvasya ca sarvatropayogah syat / anyathaikam ity eva na syat / namantaram va, arthabhedam abhyupa gamya tathabhidhanat / (53) (21,2-9); nanv anarthantarahetutve 'pi bhavakale 'nityata'nispattes tulyatatsva bhavata / na vai kacid anya'nityata nama ya pascan nispadyeta / sa eva hi bhavah ksanasthitidharma'nityata vacanabhede 'pi ...... / tam punar asya ksanasthitidharmatam svabhavam svahetor eva tathotpatteh pasyann api mandabuddhih sattopalam bhena sarvada tathabhavasankavipralabdho na vyavasyati sadrsapa rotpattivipralabdho va / (54) (42,8-12); kim punar anena bhedalaksanena samanyena svalaksanam samanam iti pratyeyam athanyad eva / kim catah / yadi svalaksanam katham vikalpasya vinayah / anyato va katham arthakriya / svalaksane canityatvadyapratiter atadrupyam, tesam cavastudharmata / (55) (42,22)-(43,14); te 'rtha buddhinivesinas tena samana iti glhyante, kutascid vyavittya pratibhasanat / na svalaksanam, tatrapratibhasanat / ta eva ca kutascid vyavsttah punar anyato 'pi vyavsttimanto 'bhinnas ca pratibhantiti / svayam asatam api tatha buddhya upadarsanan mithyartha eva samanyasamanadhikaranyavyavaharah kriyate / sarvas cayam svalaksananam eva darsanahitavasanaksto viplava iti tatpratibaddhajanmanam vikalpanam atatpratibhasitve 'pi vastuny avisamvado maniprabhayam iva manibhranteh / nanyesam, tadbhedaprabhave saty api yathadrstavisesanusaranam parityajya kimcitsamanyagrahanena visesantarasamaropad, dipaprabhayam iva manibuddheh / tena na vikalpavisayesv arthesv arthakriyakaritvam/napi svalaksanasyanityatvadyabhavah / yasman nanityatvam nama kimcid anyac calad vastunah / ksanapratyupasthanadharmataya tasya tathabhutasya grahanad etad evam bhavaty anityo 'yam anityatvam asyeti va / taddharmatam evavataranto vikalpa nanaikadharmavyatirekan samdarsayanti / na ca te nirasrayas tadbhedadarsanasrayatvat / navastudharmata, tatsvabhavasyaiva tathakhyateh / ...... cf. PV III, v.80ab. P [1979] , p.153. (56) (18,19)-(19,12) BR. (57) (11,1-3); tatranvayasya niscayena viruddhatatpaksyanam nirasah / vyatireka syanaikantikasya tatpaksyasya ca sesavadadeh / "sesavat" 2011 Tla Steinkell ner[1979], Anm.436. (58) Katsura[1983] p.540, [1984] p.133, p.143 DR. (59) FRA [1984] pp.210-211. (60) (10,21-23); sa tasya vyatireko na niscita iti vipakse vsttir asankyeta / vyatire - 40 - Page #42 -------------------------------------------------------------------------- ________________ o lv7+- Vo 40 [kg den kasadhanasyadarsanamatrasya samsayahetutvat / na sarvanupalabdhir gamika / (101,11-13); vastutas tv anupalabhyamano na san nasan, satam api svabhavadiviprakarsat kadacid anupalambhat tasyasatsv api tulyatvat / VN (9,1-2); napy adarsanamatrad vyavsttih, viprakrstesv asarvadarsino 'darsanasyabhava sadhanat, ... / (61) HB (4*,3-5); anvayaniscayo 'pi svabhavahetau sadhyadhramasya vastutas tad bhavataya sadhanadhramabhavamatranubandhasiddhih sa sadhyaviparyaye hetor badhakapramanavrttih. (62) VN(6,5-6); atra vyaptisadhanam viparyaye badhakapramanopadarsanam / (63) XABALE T IH, [1984] . (64) (16,28)-(17,3); "tasmat tanmatrasambandhah svabhavo bhavam eva va/nivar tayet //" (=v.23abc) yatha vrksah simsapam / sakhadimadvisesasyaiva kasyacit tathaprasiddheh, sa tasya svabhavah / svam ca svabhavam parityajya katham bhavo bhavet, svabhavasyaiva bhavatvad iti tasya svabhavapratibandhad avyabhicarah / "karanam va karyam avyabhicaratah // " (=v.23cd) karanam nivartamanam karyam nivartayati / anyatha tat tasya karyam eva na syat / siddhas tu karyakaranabhavah svabhavam niyamayatity ubhayatha svabhavapratiban dhad eva nivsttih / (65) #[1986] p.97. (66) } p.5 (n.14) BR. (67) (24,10-15); "svabhave 'py avinabhavo bhavamatranurodhini /" (=v.39ab) yo hi bhavamatranurodhi svabhavas tatravinabhavo bhavasyesyate / "tadabhave svayam bhavasyabhavah syad abhedatah //" (=v.39cd) ya eva bhavo bhavamatranurodhi svabhava ity ucyate, sa eva svayam vastuto bhavah / sa catmanam parityajya katham bhavet / (18,23-26); na hi svabhavasyabhave bhavo bhavaty, abhedat / .. / tatha hy ayam asya svabhavo yena tadabhave na bhavati / (68) (49,2-3); vastusamvadas tu vastutpattya tatpratibandhe sati bhavati / anyatha naivasti / (69) (10,21-24); sa tasya vyatireko na niscita iti vipakse vsttir asankyeta, vyatireka sadhanasyadarsanamatrasya samsayahetutvat / na sarvanupalabdhir gamika / tasmad ekanjvrttyanyanivsttim icchata tayoh kascit svabhavapratibandho 'py estavyah / (10,28); na hy asati pratibandhe 'nvayavyatirekaniscayo 'sti / (2,1920); svabhavapratibandhe hi saty artho 'rtham na vyabhicarati / (17,12); tasmat svabhavapratibandhad eva hetuh sadhyam gamayati / (70) (17,20-21);- drstante hi sadhyadharmasya tadbhavas tanmatranubandhena tat svabhavatay, khyapyate / (71) (17,21)-(18,3); yah krtakam svabhavam janayati so 'nityasvabhavam santam janayatiti pramanam drstantenopadarsyate / anyathaikadharmasadbhavat tadanyenapi bhavitavyam iti niyamabhavat sadhanasya sadhyavyabhicarasanka syat / tena ca pramanena sadhyadharmasya tanmatranubandhah khyapyate / svakaranad eva krtakas tathabhuto jato yo nasvarah ksanasthitidharma /anya tas tasya tadbhavanisedhat / (72) (18,3-5); hetubhavo va tasmin saty eva bhavad iti drstantena pradarsyate 'r thantarasya / ERWKOWEETD#1267ld (22,1-3) (n.41) BR. -- 41 -- Page #43 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 (73) (18,5-9); tatha prasiddhe tadbhave hetubhave vanityatvabhave krtakatvam na bhavati dahanabhave ca dhumah / tatha hi sa tasya svabhavo hetur va / katham svam svabhavam hetum vantarena bhaved ity asrayam antarenapi vaidharmya drstanteprasidhyati vyatirekah / (74) HB(5*,7-8); paksadharmasya yathokta vyaptir avinabhavah / "yathokta" Z は、PVSVにおいてすでに述べられ HB (2*,7-8)にそのまま継承された遍充関係の説明(n. 3) を指す。なお、avinabhava と svabhavapratibandha の同義性については、n.48 参 照。 (75) (18,9-13); yesam punah prasiddhav eva tadbhavahetubhavau tesam, "vidusam vacyo hetur eva hi kevalah // " (=v.27cd) yadarthe drstanta ucyate so 'rthah siddha iti kim tadvacanena tada. (76) HB において「これ(原因総体)が知覚されると知覚の条件を備えていたにもかかわらず それまで知覚されなかったもの(結果)が知覚され、それ以外の原因があってもこれ(原因 総体)がなければ[結果が]存在しないというように、『あるもの(結果)が、それ(原因 総体)があれば存在し、そしてそれがなければ存在しない」という形の知覚と非知覚によっ て論証されるところの因果関係が成立することによって、karyahetu の場合、肯定的遍充関 係は確定(決定)される。」 HB (4',7-12); karyahetau karyakaranabh avasiddhih, yathedam asyopalambha upalabdhilaksanapraptam prag anupalabdham upalabhyate, satsv apy anyesu hetusv asyabhave na bhavatiti yas tadbhave bhavas tadabhave 'bhavas ca pratyaksanupalambhasadhanah karyakaranabhavas tasya siddhih / このもとになったPVSVの記述については《2.32》とくに n.41 の原文参照。 PVSV - HB - VN にいたる因果関係の決定の理論の微妙な発展については、稲見[1987] pp.139-140 に報告されている。 (77) Steinkellner [1974], p.123. cf. [1971], p.206. (78) (20,14); karyakaranabhavad va svabhavad va niyamakat / (=v.3lab). この因 果関係と並列される svabhava は tadatmya と注釈されるように「同一性」の意味である。 . (79) Steinkellner[1974], n.19. (80) Kajiyama [1966], p.72, "the mark identical in essence (with s(adhya)] (svabhava)”にもとづく。また、syabhava (hetu)を「本質」というよりむしろ「自体」「自 身」等ととらえる方が理解しやすいパッセージとして次を挙げ得る。(96,25)-(99,4); ata eva svadharmena vyaptah, "siddhah svabhavo gamako" (=v.192a) vacyah / na hi prakasataya prakasayan pradipas tadrupapratipattau svam arthakriyam karoti / "vyapakas tasya niscitah / gamyah svabhavas" (=v.192bc) なお、一般に燈火 (pradipa)の誓えは知識の自己認識(svasamvedana)の理論において有名であるが、この パッセージでは所遍(hetu)と能遍(sadhya)が共に自己自身(svabhava)であることの 譬えとして用いられている点で興味深い。 追記――1) 本論脱稿 (1988年10月)の後で岩田孝氏の「法称の自性証因(svabhavahetu)説 覚え書き」(「東洋の思想と宗教』5、1988年6月)を知った。またこの1年の間にシュタイ ンケルナー氏の“The Logic of the svabhavahetu in Dharmakirti's Vadanyaya" (京都大学での発表原稿)、第40回日本印度学仏教学会での谷貞志氏の「ダルマキールティに おける「自己差異性』としての「svabhava』」と題する口頭発表等々の研究成果が発表され た。それらの諸成果に対しては、本論文はそれ以前にまとめたものとして、敢えて言及する ことを控えた。 -42 Page #44 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ダルマキールティの「本質」論 2) 本稿校正中に幸いにも桂紹隆氏のご教示を仰ぐ機会を得、幾つかの重要な訂正をするこ とができた。また、《2.43 (p.27) ,2.45》に触れた svabhavahetu における能証と所証の同 一性の方向の成立するレヴェルと krtaka と anitya の同延性を理解するにあたり、vivaksá および prasiddha の視点の重要性を知らされた。この点は本論文に全く欠落しているこ とをここに注記し、同氏に謝意を表するとともに、今後の課題としたい。 (ふなやま・とおる 京都大学人文科学研究所助手) -43