Book Title: Bhava And Svabhava 01
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Page #1 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 一九九〇年三月発行 東方學報第六十二册 拔刷 部分と全體 |インド佛教知識論における概要と後期の問題點 船山徹 Page #2 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 部 分 と 全體」 |インド佛教知識論における概要と後期の問題點―― 船山徹・ 一 はじめに............ ...............六〇七頁三 ダルマキールティ以降の展開............六一九五 二 佛教側の全位批判 1 非實在の誤認... ...... .........六一九頁 (ダルマキールティまでの概要).........六一二頁2 ニャーヤ・ヴァイシェーシカの 1 批判の論法... .....................六二頁 佛 教批判......... ......六二一頁 2 ディグナーガの『取因假設論』と 3 佛教側の論證式の處理 全盟否定の意義・ ......六一三頁 (アショーカ)... ............六二七頁 3 ダルマキールティの指摘する 四 おわりに....... ............六三〇頁 「三つの矛盾」 ............六一六頁 一はじめに 我々が日常、手で觸れ、眼のあたりにするもの、この一見確かな存在感をもつもの――知覺對象――の本性は一體何な のか。かりそめの現象に惑わされることなく、その奥にひそむ事物の、そして究極的には自らのありのままの眞實相を考 究しようとするとき、人は洋の東西を問わず、しばしばこの知覺對象に疑念を抱きその分析をはじめる。さまざまな位相 での眞實智 (tattvajnana) の考究を通して或る絕對的な境地の體現をめざすインド諸哲學の歴史の中で、この問題は、特 六〇七 Page #3 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六八 に「其實の知覺對象は部分か全體か」の問いをめぐり、ヴァイシェーシヵ學派およびニャーヤ學派(以下ニャード・ヴァ イシェーシカと略記)と佛教知識論學派(ディグ ナーガとダルマキー ルティの流れを汲み、經量部ないし唯識の立場から 正しい知識手段を主題とする一派)の閒に展開された。 まず、論爭のポイントを簡単に例示しておこう。 ニャード・ヴァイ シェーシカが好んで用いる「布と糸」を例に取るな らば、布は全體 (avayavin、以下、本論文では「全體」の語を avayavin の意味でのみ用いる)であり、その構成要素で ある糸は部分 (avayava) である。ところで、ここで素朴な疑問が生じる。我々は日常ごく普通に「布を見る」「布に觸れ る」等と表現するが、見たり觸れたりする當の對象は果たして本當に「布」なのか、と。というのも、布はその構成要素 である糸に分解してしまえばもはや何も残らない以上、布は名ばかりの存在にすぎないのではないか。そしてそうであれ ば、布ではなく、糸こそが見たり觸れたりする眞實の對象ではないのか。この考えを推し進めると、當然その糸さえも疑 わしい存在となってくる。なぜなら布が糸の集合であるように、糸も繊維の集合であるから。かくして存在の分析は、も はやそれ以上分解し得ない原子 (paramanu) を要請してはじめて一應の理論的落着を見せる。しかし、原子を要請すると なると、ここにもうひとつ別の素朴な疑問が生じる。原子など實際には見えていないのに、それが一體どうして知覺對象 であるなどといえようか、と。 我々が知覚しているのはいったい何か。全體か、原子か、それともどちらでもないの か。インド流の「部分か全體か」の議論は、こうして始まるのである。 「知覺對象は事物の全體 (avayavin) である」――これがニャード・ヴァイシェーシカのテーゼである。これに對して佛 教知識論學派は、經量部 (Sautrantika) の立場から「全體は概念化された表象に過ぎず、其實の知覺對象は、部分、すな わち部分の究極相たる諸原子の顕現相にほかならない」と主張する。あるいは純粋意識のみの世界を說く唯識(Vijmánavadin)の立場にレヴェルアップして、原子さえも否定する。 いづれにせよ、 佛教知識論學派は全體など無用の長物であ Page #4 -------------------------------------------------------------------------- ________________ るとして、全體を實體視する立場と真っ向から對立するのである。兩者の閒に激しい批判の應酬が繰り廣げられたのはい うまでもない。 この部分と全體の理論を、異なる學派の閒の對論という觀點に立ち、この議論に多大な變革をもたらした佛教のダルマ キールティ(六○○―六六○頃)を軸として、その前後の思想を檢證し、そこに何らかの意義と思想史的な流れを跡づけ ること、これが本論文の課題である。しかしながら、それに先立ち、從來の研究に立脚して全體 (avayavin) に關する基 本事項を確認しておかねばなるまい。 (全體 avayavin とは何か) 部分と全體の理論の萌芽は、つとに『ヴァイシェーン カ・スートラ』(五○|一五○頃に現形成立)の一ー一一八「實 dは別の實體を創始する」に見て取れるが、佛教のナ ー ガ ー ルジュナ(一五○|二五〇頃)と同時代に現形が成立した 『ニャーヤ・スートラ』の、二ーー―三一~三六および四―ニー七~一五において、初めて全體 (avayavin) という術語 を用いた議論が登場する。そしてそれ以降はむしろニャーヤ學派で議論され、スートラの相當箇所に對する注釋等におい て時代とともに精緻さを増し加えていった。 先にも觸れたように、スートラ成立の當初より全體を實體 (dravya) として實在視する背景としては次のような考えが あった。もし全體を實在としなければ、分析の究極的產物たる原子 (paramanu) こそが實在となろうが、それは感覺器官 でとらえることができないから、知覺が成立しないことになってしまう。そこでニャード・ヴァイ シェーシカは、「粗大」 なる知覺認識は粗大な存在を對象とすると考え、實體・屬性・運動・普遍・特殊・內屬關係の六つより成る獨自のカテゴ リカルな句義 (padartha) 論の基礎の上に、「粗大」なる認識の對象・大なる分量の基體として、諸部分とは全く異なる単 部分と全般 六〇九 Page #5 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報」 六10 一な「全體」が實在し、それこそが知覺の對象であると主張するのである。全體は、部分が集合した結果、そこに新たに 創始される結果實體 (karyadravya) である。ここに因中無果論 (asatkaryavada) としての學派的傾向がよく現れている。 また全體は、內屬因 (samavayikarana) として相互に結合 (samyoga) した諸部分において存する。ふ た たび布と糸を 用いて例示するならば、 布 (全體、結果)が諸の糸(部分、原因)に存する場合、 糸は布の內屬因(samavayikarana) である。 それに對して、 糸に內屬する糸の色等の屬性や運動は、非內屬因 (asamavayikarana) である。その他の原因 ――材や織り手は機會因(nimittakarana)である。 (全體と添性說) ニャーヤ學派は原子論を採り入れ、さらに原子は感覺器官による認識が不可能であるからこそ、粗大認識の根據として 全體を要請した。他方、佛教の經量部は原子だけで十分であり、個々の原子は知覺不能であるが、集合すれば知覚される に至るという見解をとる。彼らは、直観的知覺 (pratyaksa) という概念を交えない認識のレヴェルで、原子の集合體が外 界から投げ込まれたそのままの姿で存在すると考えるのである。そして周知のように、この原子の集合體の理論において 畫期的な貢獻をしたのがダルマキールティ(六○○六六○頃)である。彼は『プラマーナ・ヴァールッティカ』第三章 第二二三偈で有名な添性 (atisaya) 設を主張する。それによって「原子だけから如何にして知覺レヴェルの對象の粗大性 を說明するか」という經量部原子論の問題點を克服しようとしたのである。 興味深いことにダルマキールティ以前に、ニャーヤの方では既にウッドゥヨータカラ(五五〇一六一○頃)が「諸原子 は何らかの特性を生じるか否か」との問いを立て、經量部のように原子だけを認める場合、原子が知覚されるためには、 そこに何らかの特性 (visesa)が生じなければならないと考えていた。しかしながら、彼の思辨はダルマキールティ流の Page #6 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 添性說には向かわない。――「諸原子は感覚器官でとらえられないから、知覚の對象であるとは理解されない。[反論者の いうように単に] 集合した「諸原子]は感覚器官でとらえられるが、集合していない「諸原子]は感覺器官でとらえられ ないというだけ[であれば]、大きな矛盾である。なぜなら、何らかの特性が生じなければ[諸原子]は知覺され得ないか ら。從って、全體が生じ、それが知覚の對象である」「もし「諸原子が]特性を生じるならば、その特性こそが全體だとい うことになる」――諸原子が集合するとそこにある特性が生じるとする點は經量部と同じである。ではその特性とは何か。 ウッドゥヨータカラは、その特性こそ全體 (avayavin) なのだと言うのである。彼の見解の中には添性 (atisaya) という 語は用いられていない。その語を用いて添性說を全體の理論に取り込もうとするのはヴァーチャス パティミシュラ(十世 紀)であり、彼はダルマキールティの上述の偈を引用しながら、「全體という實體の生起と別に諸原子の添性などありは しない」と明言する。要するに、經量部が諸原子のみを認める場合の不都合を解消しようとして「原子の集合體には添性 (atisaya)が生じるのだ」と主張するならば、もはや全體を認めるのと変わらないではないか、と言うのである。 二 佛教側の全體批判(ダルマキールティまでの概要) _1 批判の論法 「部分とは別に全體などどこにも見えない以上、全體は存在しない」――この點で佛教側の對應は一貫している。この主 張は、ヴァスバン ドゥ(四○○四八〇)の『唯識二十論』第十一偈への自注に登場し、ダルマキールティの非認識(anupalabdhi)の理論を介して、シャーンタラクシタ(七二五十七八三)の『タットヴァ・サングラハ』とカマラシーラ(七 四〇一七九五)の『難語釋』、ジターリ(九○○I-○○○頃か)の『善逝本宗分別疏』、モークシャーカラグプタ(十一 部分と全色 K11 Page #7 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 111 東方學報 世紀)の『タルカ・バーシャー』等に確認され、經量部ないし唯識學派の基本的なテーゼとして、歴史を通じて奉じられ たことが窺える。しかしながら、もし「認識されないから存在しない」というだけであれば、當のニャード・ヴァイシェ ーシカにとってさして痛手にはならなかったであろう。彼らは「全體こそが見えている」と主張しているからである。そ こで、全體を否定するための様々な論法が生み出された。その代表は、部分と全體の開に存在レヴェルの整合的な存在關 係 (vrtti) がありえないから全體は存在しないというものであり、これは『ニャード・スートラ』四ーニー六~九に見え、 それ以降の議論の深まりとともに千年以上も用いられることになる。いまこの比較的初期の形をヴァーツヤーヤナ(四○ 〇年前後)の疏にもとづいて確認しておくと次のとおりである。まず(1)一つ一つの部分が(ィ)全體に全面的に存在 するとは考えられない。部分と全體は分量を異にするからである。また(日) 全體の一部に存在するとも考えられない。 単一な全體に部分などあり得ないからである。逆に(二) 全體が(ィ)個々の部分に存在するとも考えられない。部分と 全體は分量を異にするからであり、また全體が一個の部分と等しくなってしまうからである。また(口) それぞれの部分 の一部ずっと關係するとも考えられない。各部分の別異性がなくなってしまうからである。――この論法は、全體と部分 のほかに、普遍と個物の理論でも用いられるポピュラーなものである。この論法を以下「存在關係 (vrtti)による論法」 と假稱して論を進めたい。 佛教文獻において用いられた全體批判の論據はどうか。上述「認識されないから」との論藤のほかには、まず、ナーガ ールジュナ(一五〇一二五〇頃)の『ヴァイダルャ論』がある。そこでは論證式の支分と論證式の全體の問題として、中 觀派の立場から部分と全體の兩方の存在が否定されるが、 彼の用いる論點は初期の存在關係による論法であり、『ニャー ャ・スートラ』との成立關係が指摘されている。またヴァスバンドゥの『倶舎論』には、知覺對象としての全體について、 おなじ存在關係による論法および全體 (avayavin) の色という觀點からの議論が確認される。また、ディグナーガ(四八 Page #8 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ○|五四〇頃)の『プラマーナ・サムッチャヤ』からは次の記述が確認される。 (一)全體は部分と別でない。[全體として量った場合に、全體の分だけ]重さが特に増えないから。 (二)部分は全體と別でない。[ちし別であって全體が知覺對象であるとすれば、部分が〕知覚されないことになって しまうから。 (二)は上述の「認識されないから」と同じ論法であるが、重さを視點とした(-) | それはダルマキールティに継 承される -- は、ディグナーガの獨創かと思われる。彼はまた『取因假設論』(後述)においても兩者の別異性を否定し ている。そこでは從來の存在關係による論法が踏襲されている。論述を進めるにあたり彼が身體(身、sarira/kaya) を實 例とする點は、これもまたダルマキールティにつながる點で留意するに値するであろう。 以上によって、ダルマキールティ以前の議論として、全體が知覺對象として議論される場合と論證式の全體として議論 されることがあるが、主として前者の意味での全體が、存在關係 (vrtti)や全體の重さ、全體の色等の諸觀點から否定さ れた點を確認した。 2 ディグナーガの『取因假設論』と全體否定の意義 次に、佛教側の全體批判の意義を考えてみたい。ナーガールジュナが全體のみならず部分さえ否定するのは、彼の基本 テーゼ「空」よりして當然のことであった。唯識學派の場合には、一切の唯識性の立證という背景があった。経量部の場 合には、唯識の外界實在論批判の第一段階として、また『倶舎論』第六章第四偶に典型的な所謂「假象の概念」よりして、 分解してしまえば何も残らない壺等の全體は、當然否定されるべき假の存在にすぎなかった。このような教義的な意味合 いのものに對して、たんなる教義や理論を越えた、より一般的な立場から、部分と全體等を假象の存在に位置付けてみせ 部分と全位一 六三 Page #9 -------------------------------------------------------------------------- ________________ ( 8 東方學報 六一四 るテキストがある。ディグナーガの『取因假設論』(義淨譯)である。そこで次に、『取因假設論』に展開される「假象の 概念」と全體の否定の關係をまず確認した上で、全體の否定の意義を考えてみよう。テキストは次のように始まる。 (論にいう。)[およそ存在物は]「単一である」「異なる」「全くの非存在である」という「三つの] 極論を捨て去るた めに、偉大なるお方(佛世録)は假象に依據してものごとを假に設定して、佛法の要點を宣揚し、方便によって有情 が悟りに入り、理に叶った仕方でありのままに心を向けて(如理作意)誤った教えを離れ、煩悩を完全に捨てるように 仕向けようと望まれた。このような三つの極論には皆な誤りがあるからである。[以上のことを述べるために] 私は これから論澤(本論書)を始めよう。 さてこの「取因假設」には大略三種ある。第一は集合體(總衆)、第二は持續體(相續)、 第三は様態の差別(分位差別) である。 集合體とは、同時點での多數の存在の集まりをいう。 世閒一般の表現に從って、「単一である」と言われる。 例えば 身體や森林など。(...持續體と様態の差別は略...)以上の三つの存在に基づいて、 甚深の真意を秘めたことばとして、 人(プドガラ)がいるとか完全な寂滅を證するとか言われるのであるが、しかしこの三つのものは単に位の設定(假 象)に過ぎず、[本來は、存在を]「單一である」とも「異なる」とも「全くの非存在である」とも言うことは出來な い。そうした考えには皆な誤りがあるからである。 集合體(総聚)が三種の「取因假設」(質料因を取り込んで結果の存在を假に設定すること、すなわち假象)のひとつとし て扱われている點は從來の研究(注8)にゆずるとして、我々がここで注目したいのは、その集合體の例として身體と森 林が準げられている點である。というのも、ここに佛教のいう「集合體」の概念とニャーヤ・ヴァイシェー》カの主張す る「全體」の概念の閒の相違が試み取れる か ら で ある。すなわち、身體はニャーヤ・ヴァイシェーシヵにとっても全體 Page #10 -------------------------------------------------------------------------- ________________ (avayavin) という實體 (dravya) である。それに對して、森林や軍隊の存在論的立場は初期のニャード・ヴァイシェー シカのテキストには 明らかにされていないが、 ディグナーガ以降に活躍したニャーヤ學派のウッドゥヨータカラによれ ば、 森林や軍隊は全體ではなく、 多數性という數 (bahutvasamkhya) であり、それは屬性 (guna)に分類される。從 って、「總聚」の原語は avayavin ではありえず、samudáya あるいはそれと同義の samudita, samaha, samghata 等 であると思われる。この點は從來の研究において看過されることが多く、總聚=全體として、森や軍隊まで全體(avayavin) であ る か のごとき議論がされることもあるが、それは正しい理解ではない。ただし、佛教側からすれば集合體は 全體より廣義の概念である以上、「集合體の実在性の否定」は「全體の實在性の否定」をも含意する。(譯出は控えるが、 『取因假設論』でのニャード・ヴァイシェーシカに對する直接的な全體 (avayavin)批判は總聚がその構成要素(部分) 説と異なる (異性) かとう か吟味する文脈において取り上げられている)。 以上を押さえたうえで上記引用を考慮しつつ、次に全體の否定の意義を確認するために、テキスト末尾を引用しょう。 いったい、世閒の現實の場で「單一である」「異なる」等と言うことはできないのか(できるではないか)[と考える 者もいるであろう。それはその通りである。]このような反論があるのも、世閒の人々が、衣服等や糸等に對して「單 一である」とか「異なる」とかと思いはかることなく、皆共に資買等のことがらを為すのを賃際に經驗する[からで ある]。世寧も、世閒を利益せんが為に、 方便で教說をお述べになったのであって、だからこそ、それが単一である とも異なるとも仰らなかったのである。項にいう―― 世尊は、「衆生に] 煩悩を捨てさせようと欲して、 かの世閒の人々が考えるようなことがらに調子を合わせて、 「単一である」とも「異なる」とも仰らずに、方便によって設法し衆生を教化されたのである。 論にいう。諸佛世尊は、世間のあり方をないがしろにせずに、[しかも]その(相手の) 持ち前のままに、思い巡らす 部分と全位 六一五 Page #11 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六一六 のが難しい事柄を離れ、諸の衆生における各々の願望の相違に從って、がんじがらめの隨眠(煩悩)の狀態のなかで、 その諸煩悩を捨てさせる為に、佛法の要點を宣揚される。(以下略) まとめると次のようになろうかと思う。ディグナーガによれば、佛は事物を単一であるとも異なるとも全くの非實在であ るとも說かなかった。しかし、このことは佛が事物の単一性等を認めていたことを意味しない。佛の說く內容には、しば しば甚深の意味を秘めたもの(密意)があるが、 事物の単一性等もこの密意にほかならない。 事物は本來これこれと言葉 で表現しうる性質のものではなく、假象にすぎないから。では、なぜ佛はそのようにはっきりと說かなかったのか。ディ グナーガは、まさにこの「說かなかった」という點に、方便によって衆生を濟度に導こうとの佛の意圖、佛の對機說法、 をみてとるのである。 方便の強調によって衆生のJ度を良く論法は、もちろんディグナーガ獨自のものではなく、より廣く大乘佛教一般の立 場からのものであろう(例えば、唯識家ディグナーガと般若經のつながりは、彼の『佛母般若波羅蜜多圓集要義論』Prajmaparamitapindarthasamgraha からも明らかである)。部分と全體という觀點からみるとき、『取因假設論』の特徴は、 假象の理論に「全體」を位置付けた點、コンパクトなテキストのうちにも単なる認識論を越えたところで佛の方便との關 連を示した點にあろう。このような彼の論述は部分と全體の議論を歴史的に俯瞰するとき興味ぶかい。なぜなら、彼以降 になると理論の細分化・複雑化のために、外界否定による唯識性の論證といった教義上の關係はともかくとして、全體の 否定という哲學理論が宗教的救濟を說く佛教本來の立場とどのようなつながりがあるのか、にわかに見極め難くなって行 くからである。 3 ダルマキールティの指摘する「三つの矛盾」 Page #12 -------------------------------------------------------------------------- ________________ こうした佛教からの全體批判の流れの中にあって、さらに大きな影響を與えた人物がいる。ダルマ キールティである。 彼は全體が「単一である」とされる點に三つの矛盾を突き付けることによって、全體の實在性を批判した。『プラマーナ・ ヴィニシュチャヤ』の外界實在論批判の文脈で「身體」の場合を例にとりながらいう。 . J ...全體は單一な認識對象としてそのような(粗大な)顯現をもつものではない。 もし[単一で]あれば、(1) 手など[の部分」が動けば、(ィ)[身體の]すべてが動くことになってしまうから。あ るいは(口)[すべてが]動くわけではないというのであれば、動く〔部分]と動かない[部分]は、水と布のよう に、別個に成立する(身體の単一性と矛盾する)ことになってしまうから。 また(二)一部が覆われれば、() すべてが覆われることになってしまうから。[単一な全體に]區別はないからで ある。あるいは(口)何ものも覆われはしないのだから、[一部が覆われても]すべてがくまなく知覺されることにな ろう。(反論)部分を覆うことは全體を覆うことにはならない。(應答)大部分が覆われてさえ[全體は]覆われては いない [ことになる]から、[覆う]以前と全く同様にこれ(對象)が知覚されることになってしまう。(反論)部分 の知覺によってそれ(全體)は知覺されるのだから、知覚されていない部分を有するそれ(全體)は見えないのだ。 (應答)否。どこもかしこも見えないこと に なってしまうから。なぜなら、すべての部分を知覚することは不可能だ から。いくばくかの部分が知覺されれば全體が知覺されるのだとしたら、同様に、ごく僅かの部分が知覺されただけ でも粗大な認識が得られることになってしまう。 また(三)一部分が赤く染まれば(ィ)全部が真っ赤にみえるか、(口)[部分がすべて赤くても、全體は全然]赤く ないものとして認識されることになってしまう。 この言明が後代に與えた影響は極めて大きい。 ダルマキールティ以降、佛教からの全體批判は、從來の「存在關係による 部分と全般 六一七 Page #13 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六一八 論法」に加え、この「三つの矛盾」を批判の強力な手段として、「矛盾する屬性とむすびついた集合體は単一ではない」と のテーゼを確立するにいたる。これはがんらいダルマキールティの『プラマーナ・ヴァール ティカ第一章自注』に端を 發すると考えられ、同第二章第八四十八五偈にもとづく上述の『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』を介して、それ以降、 シャーン タラクシタとカマラシーラ、ダル モッタラ、ジターリ、アショーカによって「全體は矛盾する屬性とむすびつい (3) ているから単一ではあり得ない」旨の論證式が數多く構成された(ダル モッタラとアショーカについては再論する)。その 場合、「三つの矛盾」は式の具體的な說明として用いられた。また、「三つの矛盾」に加えて「全體は複數の場所を占める から単一でない」との第四の矛盾點も登場する。これはシャーンタラクシタとカマラシーラ、アショーカに見られる。他 方、このような佛教側の動向に對してニャーヤ側は徹底的に反論を加える。すなわち論理學的には佛教側の提出する論證 式の不備が指摘され、それと並行して存在 レヴェルでの部分と全體の別異性が更に強調されてゆく。また周知のことでは あるが、ダルマキールティが『プラマーナ・ヴァールッティカ』第三章第二○○偈で取り上げた黄色の問題を受けて、ヴ アイシェーシカが全體の色として斑色の単一性――それはウッドゥヨータカラによってつとに主張されていた――と非單 一性の問題をめぐり更に紛糾した議論を深めていったことも指摘しておくべきであろう。 しかしながら、これらのすべてを詳論することは本論文の意圖ではない。我々は、こうした流れの中にあって生じた論 理學的問題に焦點を絞って議論を進めたい。先述のように、佛教側は全體などどこにも見えないという。しかしニャーヤ 側は全體こそが見えているという。このような全く異なるテーゼが衝突するとき、對論は果たして可能なのか。歴史的に どのような軌跡をたどったのか。これを佛教の側に立って確認してみたいのである。 Page #14 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 三ダルマキールティ以降の展開 1 非實在の誤謬 部分と全體について、ダルマキールティ以降の議論を險登しようとするとき、我々は大きな問題に遭遇せざるを得ない。 彼以降のニャーヤ・ヴァイ シェーシカの現存テキストは、すべて九〇〇年前後の成立と考えられ、その閒の空白を埋める シャっ 議論は、カマラ シーラの『タット ヴァ・サン グラハ難語際』に垣間見られるシャン カラス ヴァーミン說のみである。加え て、現存テキストの著者の年代すら確實とはいえない。また、部分と全體に關する限り、二三の論點を除けば、概して現 存テキストは大同小異、そこに時代を畫する新たな視點は見いだせないようにも思われる。ダルマキールティ以降、認識 論・存在論上の學派的對立が深まり、對論の共通基盤が失われたかの感さえある。そこで我々は、目下の問題へのアプロ ーチとして、年代論や認識論・存在論上の問題を離れ、論理學的問題に對する一つの觀點を設定してみたい。それによっ て、十世紀頃に共通のある問題意識を抽出することができるのではないかと思う。 その觀點とは、論證式における小前提の處理である。一般にダルマキールティ以降の議論の特徴として、一連の議論が 論證式の成立・不成立を巡ってなされる點を指摘し得る。結論を先取りするならば、部分と全體の議論の特徴としては次 の點がある。すなわち、論證式を自立(定言的)論證 (svatantrasadhana) か歸謬 (假言的) 論證 (prasaigasadhana) か に分ける分類法と、佛教にとって全體は存在しないから、論證式は非實在の誤謬 (asrayasiddhi) となるのではないかとの 論難の二點である。ここにおいて、それまで自己の呈示と擁護に終始していたニャーヤ・ヴァイシェーシカが、佛教の全 體批判の論理學的缺陷を指摘することによって反撃を開始したのである。 部分と全位 六一九 Page #15 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六IO佛教論理學において、小前提の成立は、證因(媒名辭 hetu)の主題(小名辭) 所屬性 (paksadharmatva) を條件とす る。立論者がある證因を立ててある主張を論證する場合、立論者・對論者の双方が證因の主題所屬性を等しく認めなけれ ば正しい意因とはされない。佛教論理學をはじめて體系化したディグナーガの分類に從うならば、(イ)双方が認めない場 合や(口)いづれか一方の者が認めない場合、または(ハ) 疑わしい場合、(三)證因の所屬する基體である主題そのもの がそもそも實在しない場合には、主題所屬性は成立し得ないのである。このうち、我々の目下の議論に關係するのは、特 に()である。論證式の主題 (dharmin) すなわち證因の所屬する基體 (asraya) が非實在の場合、そのような誤った證 因は、主題不成立 (dharmyasiddha)ないし基體不成立 (ášrayasiddha)の證因といわれ、ディグナーガ以來、擬似證因 のひとつに數えられる。 そして後代、 このような誤った證因にもとづく論證上の誤謬は「非實在の誤謬」(基體の不成立、 asrayasiddhi=äŠrayasiddhatva)といわれるようになる。 「ディグナーガの當初、この誤謬は一方的な論理を排除し、立論者と對論者の双方がフェアな土俵の上に議論を進め、論 爭の秩序を維持するためには必須の規則であったと推察される。しかし後代になって二つの局面で問題が生じた。ひとつ は「空華」や「兔の角」のごとき本來存在しない否定的喩例 (vaidharmyadrstänta)の問題であり、 それは刹那滅論證 で再三取り上げられた。もうひとつは、全體の存在性を否定するような場合である。すなわち、對論者(ニャーヤ・ヴァ ィシェーシカ)だけが一方的に存在すると認める全體の存在性を否定するために、その存在を認めない立論者(佛教側) が、全體を主題とする論證式を立てることが果たして可能なのかどうか、という問題である。これはまさしく《論證上の パラドックス》と呼ぶにふさわしい。なぜなら、非認識 (anupalabdhi)という證因は、ダルマ キールティによって事物 の否定 (pratisedha)を目的として設けられたにもかかわらず、皮肉なことに、非認識を證因とする自立論證のかたちで 「非實在のものを非實在である」と立證することは、無條件には成立しないのである。「兔の角」と同様に、「全體」は佛教 Page #16 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 知識論學派にとって非實在である以上、そのような主題を用いる論證式は非實在の誤認に陥るからである。ただし、この 問題を明確な形で最初に言い出したのが誰であったのかは明らかでない。また、小前提の誤謬としては、この「基體の不 成立」 (asrayasiddhi)のほかに、「自體の不成立」(svaripäsiddhi)がある。これは主題は存在しても、それがその本來 のありかたとして證因とむすびっかない場合であるが、部分と全體の議論ではこの誤謬もしばしば言及される。その具體 例はのちに確認することにしよう。 2 ニャーヤ・ヴァイ シェーシカの佛教批判 ダルマキールティの「三つの矛盾」を反論したニャーヤの著作として、バーサルヴァジュニャの『ニャーヤ・ブーシャ ナ』があり、山上氏によって和譯研究が進められている。ここでは氏の研究にもとづいて、バーサルヴァジュニャのダル マキールティ批判の一部を論證式の成立という觀點から確認したい。 「三つの矛盾」の第一點「全體は單一でない。 手等が動けば、 からだ全體が動くことになってしまうから」について、 バーサルヴァジュニャは、まず、論證式の(一)大前提について、式が(ィ) 自立論證の場合、肯定的過充關係も否定的 遍充關係も成立しないから誤りである旨の言明をしている。ただし、その根據は明確でない。また、自立論證という語そ のものは用いられていない。(口)歸謬證であるとしても、部分と全體は異なるから、部分が動いても全體が動くことに はならない、從ってやはり遍充關係が成立しないという。では(二) 小前提についてはどうか。歸謬論證の場合として、 次のようにいう。 ...歸謬論證も、「反論者である佛教の主張では]外界對象は元來存在しないのであるから安當でない。 なぜなら、正 常なものなら誰も次のようなことを確立するようなものはないであろう。 すなわち、「單一であるような石女の息子 部分と全能 六二 Page #17 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六三 は存在しない。[なぜなら、もし存在すれば]手などが振動する時全身が振動することになってしまうから。 あるい はもし、振動しないなら動と不動とが別個に成立してしまうから、空華やろばの角のごとく。」と。 (山上課) ここで問題揶揄というべきか――とされているのは、論證式の主題が非實在であれば、論證は歸謬といえども成立し ないという點である。つまり、論證式に關するバーサルヴァジュニャの見解はこうである。自立的か歸謬かを問わず、全 體を否定する佛教の論證式は決して成立しない。その理由は、過充關係(大前提)が成立しないからであり、また非實在 を主題とした論證は成立し得ないからである。 彼は非實在の誤謬 (ášrayasiddhi)という語は用いないが、彼の意識の中に、 主題が非實在であれば論證式は意味をな さないという考えがあったのは明らかである。彼はこの問題意識を佛教の刹那滅論證に對しても抱き、同様の批判を行っ ているからである。例えば次に掲げるバーサルヴァジュニャの論難は、佛教側に強烈な衝撃を與え、ジュニャーナシュリ ーミトラとラトナキールティ(十一世紀)による利那滅論證の最終的發展を導く原動力のひとつとなった。 まず、もし「刹那的でないものは存在しない」と論説するために[論證式が] 意圖されたのであれば、この(否定的 遍充關係の)場合、いったい何が主題(dharmin) なのか。もし、それ(兔の角等の非存在物)が主題であるならば、 ほかならぬそ(の主題)の非存在を論證することはできない。というのも、主題が非存在であれば、證因の主題所屬 性が[成り立た]ない。 そして主題所屬性が「成り立た]なければ「證因は所證を]了知させるもの(gamaka)で はない。それ故、「刹那的でないものは存在しない」との主張は「成り立ち]得ない..., 以上で、 主張命題の主題か否定的喩例の主題かの區別はあるにせよ、「非實在のものは主題となりえない」との主張が、 全體等の非實在性の論證と刹那滅論證の二っに共通した問題提起としてあったことが理解できたかと思う。 ニャード・ヴァイ シェーシカの佛教の論證式への批判として、最も整然とした理論を打ち立てているのは、つぎに紹介 Page #18 -------------------------------------------------------------------------- ________________ するヴィヨーマ シヴァ (ヴァイ シェーンカ學派)の『ヴィヨーマ ヴァティー』であろう。彼の佛教批判は次のようにまと 2 められる(取意)。 佛教の「存在關係 (vrtti)による論法」は正しい知識手段 (pramana) でない。なぜなら「存在關係があり得ないか ら全體は存在しない」という見解は、自立論證(svatantrasadhana) としても歸謬論證(prasaigasadhana) として も成立しない。もし(1) 自立論證であれば、(イ) 式の結論は「全體という主題は存在しない」であろうが、しかし この命題において主語と述語、すなわち「全體」と「存在しない」は矛盾する。ちょうど目の前に存在するものを 「これ」と指し示し、しかも「これは存在しない」と言うのと同様に矛盾している。また(口)證因は非實在の誤謬を 犯すことになる (hetor asrayasiddhatvam) という點でも自立論意ではあり得ない。佛教徒は全體という主題を認め ないから。同様に(ハ) 佛教の見解では色等は存在するとされるが、そうであれ ば、「存在關係があり得ないから」 (vrttyanupapatteh)という證因は逸脱(不確定)である。なぜなら、彼らの見解によれば、「存在關係があり得ない から存在しない」は「存在するものは存在關係をもつ」と同義となろうが、彼らの認める色等は、存在しても存在。 係をもつとはいえない。佛教徒は存在關係すなわち內屬(samavāya) を認めないか ら で ある。 そこで、佛教徒が (二) 「論證式は歸謬論證、すなわち他學派(ヴァイシェーシカ)の遍充關係によって、その學派にとって望ましくな い結論に陥らせるものである。だから歸謬であれば全體は主題となり得る」と反論したらどうか。否。なぜならこの 場合、もしヴァイ シェーシカが(イ)正しい知識手段 (pramana)にもとづいて全體を理解したのであれば、まさに その正しい知識手段によって全體の非實在性は拒斥されるから、佛教の主張するような倒錯した推理の餘地はない。 ...(n) 佛教徒が、ヴァイシェーシカは正しい知識手段でな いもの (apramána)によって全體を理解したにすぎな い、と反論したらどうか。否。なぜなら、正しい知識手段 (pramana) なしに認識對象 (prameya)は確立しないか 部分と全般 六二三 Page #19 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六三四 ら、全體が正しく認識されている以上、それは正しい知識手段にもとづいているはずであろう。だから、佛教の論證 式は主題所屬性が成立しない點で、 正しい知識手段でないから無益である。(三) 自立論證にせよ歸謬論證にせよ、 (ィ) そもそもヴァイシェーシカにとって、存在性は存在關係に過充されない。 例えば虚空等の場合は、 存在關係な どなくても存在として認識されるから。従って、「存在するものは存在關係をもつ」「存在關係をもたないものは存在 しない」という佛教徒の主張する遍充關係は、不確定 (anekanta)である。 また(口)小前提が自體不成(svarapäsiddha)である點でも成立しない。すなわち小前提は「全體には存在關係がない」であるが、ヴァイシェーシカは、 逆に「全體は諸部分において存在する」と認めている。存在關係とは內屬のことであると確定しているからである。 次にヴァーチャスパティミシュラ說を確認しよう。しかしながらそれに先立ち、まず彼の『ニャード・ヴァールッティ カ・タートパリャ・ティーカー』に言及される佛教說を押さえておく必要があろう。 一方、ある者は次のように考える。 (大前提)存在するものはすべて部分をもたない。例えば知識のように。 (小前提)この時等の直接經驗によって確認された[對象]は存在する。 ((結論)再等は部分をもたない。) 以上は「自體」(svabhava) [という證因にもとづく論證式]である。 「無部分性」は「存在性一般」を遍充するからである。というのもこうである。単一なものの「存在性」は「矛盾す る屬性とむすびつかないこと」によって過充される。そして、それと矛盾するところの青等[の事物]の「矛盾する 屬性とのむすびつき」は、「有部分性」に付き従いながら、 自身と矛盾するところの「矛盾する屬性とむすびっかな いこと」を否定し、同時に、それ(むすびっかないこと)によって過充されるところの「存在性」も否定する。 Page #20 -------------------------------------------------------------------------- ________________ これは、ダルマキールティ說ではなく、ダルモッタラ說を踏まえたものである。なぜなら、ダルモッタラ (七五○!八一 ○)の『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ釋』には次の二つの論證式が用いられているからである。 《論證式一》 (大前提)矛盾する属性をもつものは単一でない。例えば、別個の壺のように。 (小前提)[對論者が〕単一と認める對象は、矛盾する屬性をもつと經驗的に知られる。 ((結論)對論者が單一と認める對象は、實は単一でない。) 《論證式二》 (大前提)何であれ存在するものは部分をもたない。例えば知識のように。 (小前提)顯現しているものは存在する。 ((結論) 顯現しているものは部分をもたない。) 部分とむすびつくならば、方角(場所)の相違に起因する、「存在性」の対立項であるところの「非存在」と言われる ものになる。それ故、「自體と對立するものの認識」[という意因]によって、[存在性]は[有部分性]から排除され て[それと矛盾する] 「無部分性」によって過充されるから、[この論證式は]「自體」[という證因にもとづく論證式 である」。 以上のうち、まず《論證式二》以下の箇所については、サンスクリット原文を同定し得たことを述べておきたい(注3)。 つぎに內容についてであるが、ダルモッタラは《論證式一》によって、ニャーヤ・ヴァイ シェーシカの主張する外界の「全 體」の単一性を否定し、逆に《論證式二》によって、自說唯識において真に實在する知識內對象の無部分・単一性を論證 しようとしたと考えられる。ここに我々は、ダルマキールティ以降の佛教說の發展の一端を見ることができょう。 - 部分と全位 六二五 Page #21 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六二六 では、これに對するヴァーチャスパティの應答はどうであろうか、原文は省略的表現が多いので、語を補いながらまと めるならば次のようになる。 (一) (4) 主題の「再等」が文字どおりの色を意味するならば、論證式は當然の命題を論證する (siddhasadhana) に すぎない。何故なら、佛教はもちろんニャードにとっても「」に部分があるわけではない。「声」は色すなわち屬性 だからである。そこで(日)佛教徒が、色の基體である壺等の場合はどうなのか、と反論したらどうか。否。佛教徒 にとって「壺」とは、効果的作用をなす色味香觸の謂にほかならないではないか。そうであれば、それらは我々にと って屬性である以上、先の場合と同様に、無部分・単一であることに何の支障もない。彼らは、壺と呼ばれるその基 體が色味香觸とは別に存在するとして論證式を立てているわけではないのである。(ハ)色等の基體は佛教にとっては 存在しないが、ニャーャにとっては「全體」として存在するから、それを論證式の主題であるとして、ニャ1ャにと ってのみ成立する「基Dの存在性」という證因によって、「色等の基體は無部分・単一である」と論證しているのだと するならばどうか。否。立論者は、自分にとってそもそも成立しない主張「色等の基體は無部分・単一である」を、 これまた自分にとっては成立しない「基體の存在性」という意因を用いて論證していることになる。なんと偉大な論 理學者であることか。というのも、主張も主題もどちらも自分で認めないのに、それによって他人を教示するのは適 切でない。...また(二)節謬論證 (prasaigasadhana)であったとしても、この論證式は成立し得ない。というのも 有部分性という點での矛盾はないから。単一なもの(全體)の場合、矛盾する屬性のむすびつきは拒斥手段ではない。 (以下、この議論が進行するが省略)... ヴィヨーマシヴァとヴァーチャスパティミシュラの見解は多く細部で一致しないが、しかし大枠としては、論證式を歸 診の場合とそうでない場合(自立論證の場合)に分けて議論している點、立論者自身が論證式の主題を認めない場合には Page #22 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 論證式が意味をなさないことを指摘する點で一致すると思われる。彼らは佛教の思想體系とニャーヤ・ヴァイシェーンカ の體系の相違を十二分に反論の中に生かして、高度に發達した思想體系を他の者が反論する場合の困難を浮き彫りにして いる。 3 佛教側の論證式の處理(アショーカ) 論證式の小前提の處理に明確な解答を與えた佛教徒がいる。從來の研究であまり顧みられることのなかったアショーカ である。彼の『全體の否定』(Avayavinirakarana サンスクリットのみ現存)はそれまでの知識論の傳統を受け、能遍と 對立するものの認識 (vyapakaviruddhopalabdhi) による論證式を示す。すなわち「(大前提)矛盾する屬性とのむすびっ きをもつものは単一でない。例えば、壺などの対象の ように。(小前提)青などの粗大なる對象は矛盾する属性とのむす びっきをもつ」。これによって「再等の粗大な對象は単一でない」が歸結されるわ け であるが、彼はこの論證式が非實在 の誤謬とならない點を強調する。 ここで、主題はいま現に知覺されている時などの粗大なる對象である。そしてその直接經驗によって確認された[對 象]は、拒斥するものがない限り、直觀的知見のレヴェルで成立し、證因が非實在の誤謬 (hetor asrayasiddhih) と なることはない。(反論)君たちは、全體が実在するとは主張していないではないか。[それなのに]どうして直観の レヴェルで成立するのか。(應答)ここで、主題は「全體」であるとの理解を示したわけではない。 そうではなく、 [主題は]いま顕現している粗大で再い等の対象である。(反論)それならば「矛盾する屬性とのむすびっき」から [「顕現している對象の単一性」が否定されはしても]「全體の単一性」は否定されないであろう。 アショーカは非實在の誤認に陥ることを懸念して、論證式の主題を直観的知覚のレヴェル で顯現する声などの粗大な對象 部分と全 六二七 Page #23 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報」 六二八 であるとして、全體 (avayavin) とはしない。明らかに全體の単一性を否定しようとして論證式を立てたにもかかわらず、 である。しかしそうなると、論證式と全體は何ら關わりがなくなるから、論證式を立てても、全體の否定にはならないと いうパラドックスが生じてくる。まさしくこの點を反論者は突いたのである。ではアショーカはいかにしてこの狀況を脱 するのか。 (應答)それならば、では君のいう「全體」とは一體何か。それ(全體)は頼現している粗大で青い等の[對象]とは 別なのか、別ではない(同じな) のか。まず、別ではない。なぜなら、[君たちは全體を]知覺の對象として認めるけ れども、顕現している粗大で再い等の對象とは別なものが顕現しはしないからである。[從って、君たちのいう全體 は、我々の主題とする顯現している對象と別ではないことになるが]別でない(同じ)場合、それ(主題)の単一性 が否定されるときに一體どうして全體の単一性が否定されないであろうか。 主題「粗大で凄い對象」は、直観的知見のレヴェルで知識のうちに投げ込まれた形象として存在する。從って、それを主 題とする限り、非實在の誤謬とはならない。ところでニャーヤ・ヴァイシェーシカは、知覺の對象は全體であると主張す る。もちろん、佛教知識論の主張する「粗大で青い對象」とニャーヤ・ヴァイシェーシカが主張する「全體」は全く同じ ではない。しかし、兩者は「粗大で青い對象=知覺の對象、知覚の對象=全體」という點で共通する。從って、粗大で再 い對象の単一性を否定すれば、非實在の誤謬を回避しつつ、全體の単一性を否定したことになるではないか、とアショー カは考えたのである。我々はここで彼にとって、そしておそらく彼の生きた時代の思想的狀況の中で、非實在の誤謬が極 めて強く問題視されていた點を確認することができる。 小前提に對する彼の意識は『普遍の論駁』(Samānyadisana)にも確認される。「何であれ、認識の條件が備わっている にもかかわらず、存在として認識されないものは、非存在であると思慮ある人々は表現すべきである。例えば、空華のよ カいで Page #24 -------------------------------------------------------------------------- ________________ うに。普遍は、認識の條件が備わっているにもかかわらず、どこにも認識されない。(從って、普遍は存在しないと表現 すべきである)」という自體の非認識(svabhavānupalabdhi)による論證式は、小前提の誤謬を犯さないという。彼は小 前提の成立しない可能性として (一)自體不成(svaripäsiddhi) と(二) 能別不成(visesanasiddhi) を想定し、 いずれ の意味でも不成立とはならないとする。まず(一)の場合、「非認識は他者の認識として承認されているから、そしてそ れ(非認識)は自己認識という直観的知覚によって直接つくられたことを本性とするのであるから、どうして自體不成と いう誤謬の餘地があろうか」という。つまり、あるものの非存在を論證する證因としての非認識 (anupalabdhi) は、その 發案者ダルマキールティ以來、単なる認識の缺如としてではなく、地面等他者の認識 (anyopalabdhi) であると承認され ているから、目下の主題である「普遍の存在しない場所」も、非認識の典型的な例である壺の非存在の場合と全く同様に、 不成立の誤謬を犯していないというのである。またアジョーカは、對論者は認識の條件を備えたものとして普遍をそれ自 體として認めているから、(二)の意味での不成立とならないという。 アショーカの論證式は自立論證式であろうか、それとも歸謬論證式であろうか。この問いに對し、彼自身は何も言って い。かりに敢えて解答を與えようとするならば、非實在の誤謬に對する警戒心から鑑みて、アショーカは『全體の否 定』では自らの式を自立論證式として考え、他方、『普遍の論駁』では、二通りの解答をしている點から考えて、自立論 證式としても歸謬論證式としても成立すると考えていたのではないかと推測される。しかし、この時代になると、例えば 「能遍と對立するものの認識にもとづく節謬」(vyapakaviruddhopalabdhiprasanga)等と明示される場合を除けば、一般 に論證式が自立論證式か歸謬論證式かの判定はかなり困難である。實質的には歸謬であってもその旨を明示しない場合が しばしば見受けられるのである。もしそうであれば、有名な利那滅論證における歸謬還元法(prasangaviparyaya) とい な う論理學的處理も、その背景には様々なファクターがあろうが、ひとつには否定的命題を取り扱う論證式が當時の一般的 部分と全 六二九 Page #25 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 六三〇 東方學報 傾向として、自立論證であるのか歸謬論證であるのか判定し難くなって、兩者が極めて接近してきたからこそ根付いたの ではないか、そして、佛教側にこのような趨勢が芽生えていたからこそ、前述のニャーヤ・ヴァイシェーシカの「自立が 歸診か」との論難が提起されたのではないか、との假説を提示しておきたい。 四 おわりに アショーカの論法は、ディグナーガ以来の「主題は非實在であってはならない」との規則の枠内で「非實在の誤謬」を 處理しようとした結果であり、その點で興味深い。しかしながら、周知のとおり、彼の解決法が佛教側の最終解答であっ たのではない。ジュニャーナシュリーミトラとラトナキールティは、先に紹介したバーサルヴァジュニャ等の批判を受け て、主題はある條件のもとでは非實在であっても差し支えないとの立場に到達するのである。すなわち、非實在の主辭に 實在の賓辭を付して肯定的な命題を主張するのは誤りであるが、非實在の主辭を立ててそれを否定するような命題は何ら 誤りではない。ラトナキールティによれば、 例えば「免の角は青い」「石女の息子は話す」は誤りであるが、それらの命 題の否定としての「免の角は青くはない」「石女の息子は話しはしない」は、誤りではないという。彼はこの理論によって、 否定的遍充關係による利那滅論證の正當性を擁護しようとしたのである。さらにこの理論は、先に部分と全體の議論の文 脈で確認したバーサルヴァジュニャの揶揄、「正常なものなら次のように主張したりはしない。『石女の息子は単一でない。 なぜなら...』」を考え合わせるとき、一層おもしろいものとなるであろう。 我々が以上で確認したいのは、ジュニャーナシュリーミトラによって、それまで五百年閒も墨守されてきた「非實在の 誤謬」という足枷が完全に把擲されるに至ったこと、そしてそれに至る過渡的見解として、アショーカのような論證式の Page #26 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 小前提の處理の試みが存在したこと、の二點である。もちろん非實在の誤謬が問題になったのは全體の否定だけではない。 同様の問題は、普遍の否定や唯識の原子の存在性の否定に對するニャーヤ・ヴァイシェーシカからの再反論にも見て取れ る。そうではあるにせよ、部分と全體の議論を異學派閥の對論という觀點から見るとき、そこに顕著に見られた「非實在 の誤謬」という問題意識、あるいはより一般化して小前提の誤謬の問題意識は、刹那滅論證と共通し、その最終的完成へ の伏線として作用したのではないか、と思われるのである。 以上によって、筆者は次の諸點を明らかにし得たかと思う。 (一)ダルマキールティ以前の全體 (avayavin) の否定の仕方は様々であるが、そのうち主要な論法は「部分と全體の閒 に存在關係 (vrtti) があり得ないから」というものであり、この論法は佛教知識論學派とニャーヤ・ヴァイシェーシカの 閒の論爭で最後まで議論され横けた。また、それ以外にもディグ ナーガの『プラマーナ・サムッチャヤ』にみられる「全 體の重さ」をはじめとするいくつかの論法が存在した。 (二)ディグナーガの『取因假設論』から、總數の概念と全體の概念の相違とその關係、部分と全體の議論と佛の立場の 關係、の二點が試み取れる。 (三)ダルマキールティの指摘した「三つの矛盾」の影響の下に、「全體は矛盾する屬性とむすびついているから単一で はあり得ない」とのテーゼが確立し、シャーン タラクシタやダルモッタラ等によって、そのテーゼを論證するための種々 の推論式が構成された。このような趨勢のなかで、 非實在の誤謬(äŠrayasiddhi)に代表される論證式の小前提の誤謬が 問題視されるようになっていった。それはバーサルヴァジュニャのダルマキールティ批判、ヴァーチャスパティミシュラ のダルモッタラ批判、ヴィヨーマシヴァの批判等、十世紀頃のニャーヤ・ヴァイシェーシカ側の資料から判明する。他方、 部分と全般 六三二 Page #27 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六三三 この問題に對する佛教側からの解答としては、アショーカの『全體の否定』がある。つまり小前提の問題は、論理學上の 一大問題として十世紀に問題視され、十一世紀のジュニャーナシュリーミトラの最終的理論化を導く動力となったと推察 される。 (四)最後に、部分と全體の議論について、僅かながらもダルモッタラの『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ釋』のサンス クリット断片を同定し得た點も本論文の成果の一つとして付け加えておきたい。 七頁。 紙幅の制約上、本來は引用すべき原文や研究の多くを割愛せざるを得 なかった。以下は最小限の注記である點をあらかじめ諒承されたい。 (1) ニャード・ヴァイシェーシカの學說については、次を常時參照した。 D.N. Shastri, Crituque of Indian Realism, Delhi 1964 (repr. 1976). ヨー組類「下) 出張縄戦闘将】『州出』」『眠 the lIIl' I KR' [Nyayabhusana R (-+) PE R M T K”爆誕』19-12 13K"1K-9213KV15-111 九八八、一八十四、一九八九。 () NV: Nyayavarttika, ed. T. Nyayatarkatirta and A. Tarkatirtha, Nyayadarsanam with Vatsyayana's Bhasya, Uddyotakara's Vart. tika, Vacaspati Misya's Tatparyatika & Visuanatha's Vrtti, Cal. cutta 1936, repr. Kyoto 1982, p.1055, 11. 13-15, p.502, 1.7. リ () Y. Kajiyama, The Vaidalyaprakarana of Nagarjuna, Miscellanea Indologica Kiotiensia Nos. 6-7, Kyoto University 1965, p. 143, 8832-34. 34握撃編み ( 1 ボード)地は (0) Abhidharmakosabhasya ed. Pradhan, Patna 1967, p. 189, 11.17 -23. (PSV: Pramanasamuccayavrtti, Peking, Vol. 130, Ce, No. 5700, fol. 125a6-7; dper na yan lag rnams las yan lag can gzan ma yin te sran ka dma' ba'i khyad par mi 'dzin pa'i phyir ro // yan lag can las yan lag gian ma yin te / mion sum ma yin pa nid du thal ba'i phyir ro // = nanyo 'vayavy avayavebhyas tulanativisesagrahanat / nanye 'vayava avayavinah...apratyaksatvaprasangat / ed. T.R. Sanksityayana, Pramanavarttikabhasyam or Varttikalankarah of Prajnakaragupta, Patna 1953, p. 553, 11. 21-22; do., Dharmakirti's Pramanavarttika with a commentary by Manorathanandin, Appendix to JBORS Vols. 24-26, Patna 1938--40, p. 465, 1.11f. ed. Muni Jambuvijayaji, Dvadasaram Nayacakram of Acarya Sri Mallavadi Ksamasramana, Pt. 1, Bhavnagar 1966, pp. 130-131. れらはダルマキールティの添性說のもとになるものがウッドゥヨータ カラの時代に存在した可能性を示すものである。 () Cf. NVT: Nyayavarttikatatparyatika (n. 2), p.502, 1.17f. 24 A トート+ベイト Page #28 -------------------------------------------------------------------------- ________________ (8) 宇井伯爵 『陳那著作の研究』 岩波書店 一九五八、一六七頁以下。 H. Kitagawa, A Study of a Short Philosophical Treatise ascribed to Dignag.a, 『インド古典論理學の研究』所収、鈴木學術財團 一九六 五 (repr. 一九八五)。服部正明『佛教の思想4 認識と超越〈唯識〉』 角川書店 一九七〇、八四十八六頁。 (9) 大正三1、 八八五a111b八。(論日。)爲遮一性異性非有邊故、大 師但依假施設事、而宣法要、欲令有悔方便趣入、如理作意、遠離邪宗、 永断煩悩。 如是三邊皆過故。我當開釋。此中取因假設、略有三種。一 者褪聚、一二者相績、三者分位差別。言總聚者、謂於一時有多法聚。隨 顧世用、以一性說。如身林等。...由此三義、密意說有補嘔掲羅及證圓 寂。然此二義、但是假設、不可說為一性異性及緩無性。有過失故。 (0) この貼はつとにシャース トリ (n.1, p.239) に言及されているが、論操 は不明。筆者の論據は次のとおり。 そのものに對する習慣的用法 (vyavahara)であるとする微妙な立場 をとっている。山上前掲論文(一九八九)一○六、一○八一一〇九頁 も参照。 (n) 大正三一、八八七c四十二〇。豊復世閉、於現事處、一異性等有不可 說耶。有如是說、現見世人、於衣等處、於絲等、不會思畳一異性等、 皆共爲貨買等事。世寧爲欲利益世用、方便宣說、亦不言其一性異性。 頌日。世奪欲令斷煩悩、同彼世用可思事、不言一性及異性、方便說法 化衆生。論日。諸佛世奪、不壊世閉、如其所有、離難思事、於諸衆生、 隨其意榮差別之性、於被經迫隨眠位中、爲欲跡彼諸煩悩故、宣說法要。... (2) ed. T. Vetter, Dharmakirti's Pramanaviniscayak 1. Kapitel: Pra tyaksam, Einleitung, Text der tibetischen Ubersetzung, Sanskritfragmente, deutsche Ubersetzung, Wien 1966, p. 84, 1. 18--p. 86, 1.9. 梵語原文は M. Jambivijaya (n. 23) p. 135 を参照。 ed. R. Gnoli, Pramanavarttikam of Dharmakirti, the first Chapter with the Autocommentary, Roma ISMEO 1960, p. 20, 11. 21ff. 3 上前掲論文(一九八四)生三九。さらに、カマラシーラはダルマキー ルティにもとづく「三つの矛盾」を説明する中で、ダルマキールティ テキ NV, p. 2099, 11. 7-10; evam aniyatadigdesasambandhisu gajanuturagasy andanesu parasparapratyasattyanu[/upa]glhitesu avadharitanawadhariteyattesu vartamana bahutvasamkhyaiva senety ucyate /...evam yathasambhavam pugavanayuthabrahmanaganasabda api drastavyah / ibid. p. 501, 11. 8-9; kena senavanayor anarthantarabhavo 'bhyupalamyate / yatha ca senavanany arthantarabhu tani tathoktam / NVT, p. 500, 1. 24; "tathoktam" iti bahutvasa: mkhyaiva sena vanam ceti / NOUSEVSURHO 6 620 1 lema "...ekam dravyam visvam syat / tatas ca sahotpattivinasau..." (p. 20, 11. 23--24) kut #bug A "evam hi visvam ekam dravyam syat, tatas ca sahotpadadiprasangah" (*) V samo この點も「矛盾する屬性との結びつき」の概念が『プラマーナ・ヴァ 1ルッティカ第一章自生』にもとづくことの證左となる。(*)Tatty・ asamgrahapanjika: ed. S.D. Shastri, Tattvasangraha of Acarya Shantaraksita with the commentary "panjika' of Shri Kamalashila, 御教示を得いたので、筆者の責任において以下に簡単にまとめておきた い。軍隊や森を全般 (avayavin) であると明言する文献はないが、 ウッドゥヨータカラ說をしばしば批判するバーサルヴァシュニャは、 「軍隊」や 「森」とほぼ同じ存在論的立場にある「神殿」について、そ れを全位 Cavayavin) であると認められると明言する。他方「村」や 「隠衆」に關しては、それらを全位であるというものもいるが、バー サルヴァシフュニャ自身は、例えば「村」とは家々の集合(samudāya) Varanasi 1981, p.246, 1. 15f. (A) G. Buhnemann, Jitari: Kleine Texte, Wien 1982, p. 16 に報告さ れたジターリの著作“Vyāpakānupalambha”の冒頭部分。 (6) Tattvasamgraha (n. 13), k. 601. Avayavinirakarana: ed. A. 部分と全 六三三一 Page #29 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 東方學報 六三四 Thakur, Asokanibandhau, Avayavinirakaranam Samanyadusanam () Pramanaviniscayatika, P(eking) Vol. 136, Dse, No. 5727, fol. ca, Patna 1974, p.5, 1. 12ff. Y. Kajiyama, The Avayavinirak 169a"_b', D(erge) Tshad ma Vol. 15, Dse, fol. 145b3-"; 'gal arana of Pandita Asoka, JIBS 9-1, 1961, p.369. *AN A m ba'i chos dan Idan pa de ni gcig ma yin te / dper na thad dad R9曲縄が - 100の話 ] Nyayabindu(ed. Malavaniya) pa'i bum pa la sogs pa bain / gcig tu mnon par 'dod pa'i yan ss. 72-75 LAN) vs au sons Pramanaviniscayatika (n. [D: don yan] 'gal ba'i chos dan Idan par mthon ba yin no // 23), fol. 168b7ff. S11KEN OSPAQ ibid. P. fol. 16965-6, D. fol. 145b?--146a"; gan yod pa de ni cha (9) O. Grohma, Theorien zur bunten Farbe im alteren Nyaya und med pa yin te / dper na ses pa bain no // snan ba'i dnos po Vaisesika bis Udayana, WZKS 19, 1975, pp.147-182. yan yod pa ma'*) yin no // cha sas dan bcas pa nid yin pa () Pramanasamuccaya IV, K. 11, 型深型「区監出即三縄駅[1]」『艦 ni phyogs tha dad pa'i rgyu mtshan can yod pa'i 'gal zla med 風水酬・水~輪足感』1111" 1RPH"1119-111日匹 pa zes bya bar 'gyur te / des na ran bzin 'gal ba dmigs pas yod pa nid cha dan bcas pa nid las ldog pa na cha med kyis khyab pa'i phyir ran bzin yin no //(=yad sat tan niravayavam, yatha jnanam, sac ca disyamamam nilam, savayavatve hi digbhagabhedanimitto viruddho dharmah sattvasyasattvakhyo bhavati I tena svabhavaviruddhopalabdhya vyavarttamanam sattvam niravayavatvena vyapyata iti svabhavah ), M. Jambuvijaya, Jainacarya-Sri-Hemacandrasuri-mukhyasisyabhyam acarya-Ram acandra-Gunacandrabhyam viracitayam Dravyalankara-svopajna#tos deg ] Tattvasamgrahapanjika, p. 253, 11. 14-17. tikayam Bauddhagranthebhya uddhitah pathah, Studien zum (2) ヨー昭縄☆ (1 BKP)"国広ed. S. Yogindrananda, Nyaya. Jainismus und Buddhismus, Gedenkschrift fur Ludwig Alsdorf, bhisana, Varanasi 1968, p. 110, 11. 48. Wiesbaden 1981, p. 135. 22:48厄世さんVo児医外縄以々 (3) ibid. p.510, 11.24-27. URN) 小 + -Ada - L106 fon GSK p. 134 (p. 48) Pramanaviniscayatika m P. fol. ソ思い 出ついで2°ed. A. Thakur, Jianasrimitranibandhaw 46bff., D. 40aff.2匹WS2QAJUNJU密つく!~ (*)柳 " alin, Patna 1959, p.86, 11. 19-21. ) Vyomavati: ed. M.M.G. Kaviraj and P.D. Shastri, Prasastapad abhasyam of Prasasta Devacharya, Chowkhamba Sanskrit Series, Varanasi 19835, p.45, 1. 30 p. 46, 1.3. * (8) NVT p. 474, 1. 24ff. (8) NVT (n. 3), p. 473, 11.23-26. 次のシャン カラスヴァーミン說は目下、 来 我々の問題とする小前提の誤謬についての過渡期的言明として注意し てよい。「自立〔論證]であっても歸謬 [論證] であっても、證因がそ れ自位として確かに認識されてはじめて成立し得る。さもなくば不成 立 (asiddha) となろうから。ところが君たち(佛教徒)は単一な [全 館]の多數の部分]における存在關係 (vrtti) は認識されないという。 もしその存在關係があり得ないならば、全酸という貴位は存在しない ことにもなろうが。あるいはそれがあり得るならば、部分と全館は存 味上、焚文に合わせて否定辞“ma" を省いて譲んだ。この“ma”の 問題について、 ジャン ブ ヴィジャ底から私信をもって"am”の誤り ではないかとの示唆を受けた。 (4) 彼の活躍年代は九世紀說・九〇〇年頃とする說・一○○○年頃とする Page #30 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 說・單にダルモッタラの直後とする說があるが、いずれも確定的とは いえない。引用關係からダルモッタラ以降であるのは確實であるが、 下限は不明。とくにヴァーチャスパティミシュラとの先後關係が問題 である。筆者はいまだ結論に至っていない。彼の立場と年代の確定基 準としては今のところ次の貼がある。(一)アショーカの『普遍の論駁』 とジュニャーナ シュリーミトラの『アボーハ論』に共通の一偈の引用 がある(校訂者タクル氏の指摘。ちなみにラトナキールティの『アポ 1 ハの成立』には引用されていない)。(二)ジュニャーナシュリー、 ラト ナ キールティ、アショーカの寫本が一緒に發見された。(三) ア ショーカの主張と酷似するパッセージをヴァーチャスパティが引用し (3) Avayavinirakarana (n. 15), p.1, 11.819. ($) アショーカは粗大な對象は諸原子の開隙のない (nirantara-) 集合體 であり、粗大性 (sthilatva)とは場所的ひろがり(vitatadesatva) のことであるという。同様の說は『ダルモッタラ・プラディーパ』、 『タルカバーシャー』に見える。 (8) Samanyadisana (n. 15), p. 13, 11. 5-9, 10-13, p. 14, 11. 1-2. (3) 梶山雄一「ラトナ キ ー ルチの蹄謬論證と內過充論の生成」『塚本博士 頌毒記念佛教史學論集』一九六一、二六五十二六六頁。ラトナキール ティ說はもちろんジュニャーナシュリーミトラ說を踏襲する。JianaSrimitranibandhavalik (n. 20), p.89ff. 兩者の思想の異同について は今後の課題である。 (3) Vyomavati (n. 21), p.225, 11. 3-10. 時代は下るが、アパラー ルカデーヴァの『ニャーヤ・ムクターヴァリー』にも見える。ed. S.S. SNOO Samanyadusana, p. 14, 11. 19-21; idam eva hi pratyak. sasya pratyaksatvam, yat svarupasya svabuddhau samarpanam/ idam punar mulyadanakrayi samanyam svarupam ca nadarsayati, pratyaksatam ca svikartum icchati / NVT, p. 478, l. 17; yad ahuh so 'yam amulyadanakrayi svakaram ca*) jnane samarpayati pratyaksatam ca svikartum icchaty avayaviti / (*) ;) + Sastri and V.S. Sastri, Nyayasarah of Bhasarvajna, with the Commentaries Nyayamuktavali of Apararkadeva and Nyayakalani. dhi of Anandanabhawacarya, p. 133, 11.5-7. かや く ミ 1ストリは “ca”を“na"と讃むように指示する。Shastri (n. 1), p. 255, n. 37, p.332, n. 71. デーヴァはダルモッタラを踏まえた論證式 (ns. 22, 23) 等を撃げる點 (ibid. p. 131) で、ヴァーチャスパティミシュラとの近似性を示す。 部分と全 六三五