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________________ 添性說には向かわない。――「諸原子は感覚器官でとらえられないから、知覚の對象であるとは理解されない。[反論者の いうように単に] 集合した「諸原子]は感覚器官でとらえられるが、集合していない「諸原子]は感覺器官でとらえられ ないというだけ[であれば]、大きな矛盾である。なぜなら、何らかの特性が生じなければ[諸原子]は知覺され得ないか ら。從って、全體が生じ、それが知覚の對象である」「もし「諸原子が]特性を生じるならば、その特性こそが全體だとい うことになる」――諸原子が集合するとそこにある特性が生じるとする點は經量部と同じである。ではその特性とは何か。 ウッドゥヨータカラは、その特性こそ全體 (avayavin) なのだと言うのである。彼の見解の中には添性 (atisaya) という 語は用いられていない。その語を用いて添性說を全體の理論に取り込もうとするのはヴァーチャス パティミシュラ(十世 紀)であり、彼はダルマキールティの上述の偈を引用しながら、「全體という實體の生起と別に諸原子の添性などありは しない」と明言する。要するに、經量部が諸原子のみを認める場合の不都合を解消しようとして「原子の集合體には添性 (atisaya)が生じるのだ」と主張するならば、もはや全體を認めるのと変わらないではないか、と言うのである。 二 佛教側の全體批判(ダルマキールティまでの概要) _1 批判の論法 「部分とは別に全體などどこにも見えない以上、全體は存在しない」――この點で佛教側の對應は一貫している。この主 張は、ヴァスバン ドゥ(四○○四八〇)の『唯識二十論』第十一偈への自注に登場し、ダルマキールティの非認識(anupalabdhi)の理論を介して、シャーンタラクシタ(七二五十七八三)の『タットヴァ・サングラハ』とカマラシーラ(七 四〇一七九五)の『難語釋』、ジターリ(九○○I-○○○頃か)の『善逝本宗分別疏』、モークシャーカラグプタ(十一 部分と全色 K11
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
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Publisher
Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
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