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________________ 東方學報」 六10 一な「全體」が實在し、それこそが知覺の對象であると主張するのである。全體は、部分が集合した結果、そこに新たに 創始される結果實體 (karyadravya) である。ここに因中無果論 (asatkaryavada) としての學派的傾向がよく現れている。 また全體は、內屬因 (samavayikarana) として相互に結合 (samyoga) した諸部分において存する。ふ た たび布と糸を 用いて例示するならば、 布 (全體、結果)が諸の糸(部分、原因)に存する場合、 糸は布の內屬因(samavayikarana) である。 それに對して、 糸に內屬する糸の色等の屬性や運動は、非內屬因 (asamavayikarana) である。その他の原因 ――材や織り手は機會因(nimittakarana)である。 (全體と添性說) ニャーヤ學派は原子論を採り入れ、さらに原子は感覺器官による認識が不可能であるからこそ、粗大認識の根據として 全體を要請した。他方、佛教の經量部は原子だけで十分であり、個々の原子は知覺不能であるが、集合すれば知覚される に至るという見解をとる。彼らは、直観的知覺 (pratyaksa) という概念を交えない認識のレヴェルで、原子の集合體が外 界から投げ込まれたそのままの姿で存在すると考えるのである。そして周知のように、この原子の集合體の理論において 畫期的な貢獻をしたのがダルマキールティ(六○○六六○頃)である。彼は『プラマーナ・ヴァールッティカ』第三章 第二二三偈で有名な添性 (atisaya) 設を主張する。それによって「原子だけから如何にして知覺レヴェルの對象の粗大性 を說明するか」という經量部原子論の問題點を克服しようとしたのである。 興味深いことにダルマキールティ以前に、ニャーヤの方では既にウッドゥヨータカラ(五五〇一六一○頃)が「諸原子 は何らかの特性を生じるか否か」との問いを立て、經量部のように原子だけを認める場合、原子が知覚されるためには、 そこに何らかの特性 (visesa)が生じなければならないと考えていた。しかしながら、彼の思辨はダルマキールティ流の
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
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Publisher
Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
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