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________________ 111 東方學報 世紀)の『タルカ・バーシャー』等に確認され、經量部ないし唯識學派の基本的なテーゼとして、歴史を通じて奉じられ たことが窺える。しかしながら、もし「認識されないから存在しない」というだけであれば、當のニャード・ヴァイシェ ーシカにとってさして痛手にはならなかったであろう。彼らは「全體こそが見えている」と主張しているからである。そ こで、全體を否定するための様々な論法が生み出された。その代表は、部分と全體の開に存在レヴェルの整合的な存在關 係 (vrtti) がありえないから全體は存在しないというものであり、これは『ニャード・スートラ』四ーニー六~九に見え、 それ以降の議論の深まりとともに千年以上も用いられることになる。いまこの比較的初期の形をヴァーツヤーヤナ(四○ 〇年前後)の疏にもとづいて確認しておくと次のとおりである。まず(1)一つ一つの部分が(ィ)全體に全面的に存在 するとは考えられない。部分と全體は分量を異にするからである。また(日) 全體の一部に存在するとも考えられない。 単一な全體に部分などあり得ないからである。逆に(二) 全體が(ィ)個々の部分に存在するとも考えられない。部分と 全體は分量を異にするからであり、また全體が一個の部分と等しくなってしまうからである。また(口) それぞれの部分 の一部ずっと關係するとも考えられない。各部分の別異性がなくなってしまうからである。――この論法は、全體と部分 のほかに、普遍と個物の理論でも用いられるポピュラーなものである。この論法を以下「存在關係 (vrtti)による論法」 と假稱して論を進めたい。 佛教文獻において用いられた全體批判の論據はどうか。上述「認識されないから」との論藤のほかには、まず、ナーガ ールジュナ(一五〇一二五〇頃)の『ヴァイダルャ論』がある。そこでは論證式の支分と論證式の全體の問題として、中 觀派の立場から部分と全體の兩方の存在が否定されるが、 彼の用いる論點は初期の存在關係による論法であり、『ニャー ャ・スートラ』との成立關係が指摘されている。またヴァスバンドゥの『倶舎論』には、知覺對象としての全體について、 おなじ存在關係による論法および全體 (avayavin) の色という觀點からの議論が確認される。また、ディグナーガ(四八
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
Author
Publisher
Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
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