SearchBrowseAboutContactDonate
Page Preview
Page 10
Loading...
Download File
Download File
Page Text
________________ (avayavin) という實體 (dravya) である。それに對して、森林や軍隊の存在論的立場は初期のニャード・ヴァイシェー シカのテキストには 明らかにされていないが、 ディグナーガ以降に活躍したニャーヤ學派のウッドゥヨータカラによれ ば、 森林や軍隊は全體ではなく、 多數性という數 (bahutvasamkhya) であり、それは屬性 (guna)に分類される。從 って、「總聚」の原語は avayavin ではありえず、samudáya あるいはそれと同義の samudita, samaha, samghata 等 であると思われる。この點は從來の研究において看過されることが多く、總聚=全體として、森や軍隊まで全體(avayavin) であ る か のごとき議論がされることもあるが、それは正しい理解ではない。ただし、佛教側からすれば集合體は 全體より廣義の概念である以上、「集合體の実在性の否定」は「全體の實在性の否定」をも含意する。(譯出は控えるが、 『取因假設論』でのニャード・ヴァイシェーシカに對する直接的な全體 (avayavin)批判は總聚がその構成要素(部分) 説と異なる (異性) かとう か吟味する文脈において取り上げられている)。 以上を押さえたうえで上記引用を考慮しつつ、次に全體の否定の意義を確認するために、テキスト末尾を引用しょう。 いったい、世閒の現實の場で「單一である」「異なる」等と言うことはできないのか(できるではないか)[と考える 者もいるであろう。それはその通りである。]このような反論があるのも、世閒の人々が、衣服等や糸等に對して「單 一である」とか「異なる」とかと思いはかることなく、皆共に資買等のことがらを為すのを賃際に經驗する[からで ある]。世寧も、世閒を利益せんが為に、 方便で教說をお述べになったのであって、だからこそ、それが単一である とも異なるとも仰らなかったのである。項にいう―― 世尊は、「衆生に] 煩悩を捨てさせようと欲して、 かの世閒の人々が考えるようなことがらに調子を合わせて、 「単一である」とも「異なる」とも仰らずに、方便によって設法し衆生を教化されたのである。 論にいう。諸佛世尊は、世間のあり方をないがしろにせずに、[しかも]その(相手の) 持ち前のままに、思い巡らす 部分と全位 六一五
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
Author
Publisher
Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
Copyright © Jain Education International. All rights reserved. | Privacy Policy