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________________ 東方學報 六二六 では、これに對するヴァーチャスパティの應答はどうであろうか、原文は省略的表現が多いので、語を補いながらまと めるならば次のようになる。 (一) (4) 主題の「再等」が文字どおりの色を意味するならば、論證式は當然の命題を論證する (siddhasadhana) に すぎない。何故なら、佛教はもちろんニャードにとっても「」に部分があるわけではない。「声」は色すなわち屬性 だからである。そこで(日)佛教徒が、色の基體である壺等の場合はどうなのか、と反論したらどうか。否。佛教徒 にとって「壺」とは、効果的作用をなす色味香觸の謂にほかならないではないか。そうであれば、それらは我々にと って屬性である以上、先の場合と同様に、無部分・単一であることに何の支障もない。彼らは、壺と呼ばれるその基 體が色味香觸とは別に存在するとして論證式を立てているわけではないのである。(ハ)色等の基體は佛教にとっては 存在しないが、ニャーャにとっては「全體」として存在するから、それを論證式の主題であるとして、ニャ1ャにと ってのみ成立する「基Dの存在性」という證因によって、「色等の基體は無部分・単一である」と論證しているのだと するならばどうか。否。立論者は、自分にとってそもそも成立しない主張「色等の基體は無部分・単一である」を、 これまた自分にとっては成立しない「基體の存在性」という意因を用いて論證していることになる。なんと偉大な論 理學者であることか。というのも、主張も主題もどちらも自分で認めないのに、それによって他人を教示するのは適 切でない。...また(二)節謬論證 (prasaigasadhana)であったとしても、この論證式は成立し得ない。というのも 有部分性という點での矛盾はないから。単一なもの(全體)の場合、矛盾する屬性のむすびつきは拒斥手段ではない。 (以下、この議論が進行するが省略)... ヴィヨーマシヴァとヴァーチャスパティミシュラの見解は多く細部で一致しないが、しかし大枠としては、論證式を歸 診の場合とそうでない場合(自立論證の場合)に分けて議論している點、立論者自身が論證式の主題を認めない場合には
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
Author
Publisher
Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
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