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________________ うに。普遍は、認識の條件が備わっているにもかかわらず、どこにも認識されない。(從って、普遍は存在しないと表現 すべきである)」という自體の非認識(svabhavānupalabdhi)による論證式は、小前提の誤謬を犯さないという。彼は小 前提の成立しない可能性として (一)自體不成(svaripäsiddhi) と(二) 能別不成(visesanasiddhi) を想定し、 いずれ の意味でも不成立とはならないとする。まず(一)の場合、「非認識は他者の認識として承認されているから、そしてそ れ(非認識)は自己認識という直観的知覚によって直接つくられたことを本性とするのであるから、どうして自體不成と いう誤謬の餘地があろうか」という。つまり、あるものの非存在を論證する證因としての非認識 (anupalabdhi) は、その 發案者ダルマキールティ以來、単なる認識の缺如としてではなく、地面等他者の認識 (anyopalabdhi) であると承認され ているから、目下の主題である「普遍の存在しない場所」も、非認識の典型的な例である壺の非存在の場合と全く同様に、 不成立の誤謬を犯していないというのである。またアジョーカは、對論者は認識の條件を備えたものとして普遍をそれ自 體として認めているから、(二)の意味での不成立とならないという。 アショーカの論證式は自立論證式であろうか、それとも歸謬論證式であろうか。この問いに對し、彼自身は何も言って い。かりに敢えて解答を與えようとするならば、非實在の誤謬に對する警戒心から鑑みて、アショーカは『全體の否 定』では自らの式を自立論證式として考え、他方、『普遍の論駁』では、二通りの解答をしている點から考えて、自立論 證式としても歸謬論證式としても成立すると考えていたのではないかと推測される。しかし、この時代になると、例えば 「能遍と對立するものの認識にもとづく節謬」(vyapakaviruddhopalabdhiprasanga)等と明示される場合を除けば、一般 に論證式が自立論證式か歸謬論證式かの判定はかなり困難である。實質的には歸謬であってもその旨を明示しない場合が しばしば見受けられるのである。もしそうであれば、有名な利那滅論證における歸謬還元法(prasangaviparyaya) とい な う論理學的處理も、その背景には様々なファクターがあろうが、ひとつには否定的命題を取り扱う論證式が當時の一般的 部分と全 六二九
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
Author
Publisher
Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
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