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________________ 東方學報 六八 に「其實の知覺對象は部分か全體か」の問いをめぐり、ヴァイシェーシヵ學派およびニャーヤ學派(以下ニャード・ヴァ イシェーシカと略記)と佛教知識論學派(ディグ ナーガとダルマキー ルティの流れを汲み、經量部ないし唯識の立場から 正しい知識手段を主題とする一派)の閒に展開された。 まず、論爭のポイントを簡単に例示しておこう。 ニャード・ヴァイ シェーシカが好んで用いる「布と糸」を例に取るな らば、布は全體 (avayavin、以下、本論文では「全體」の語を avayavin の意味でのみ用いる)であり、その構成要素で ある糸は部分 (avayava) である。ところで、ここで素朴な疑問が生じる。我々は日常ごく普通に「布を見る」「布に觸れ る」等と表現するが、見たり觸れたりする當の對象は果たして本當に「布」なのか、と。というのも、布はその構成要素 である糸に分解してしまえばもはや何も残らない以上、布は名ばかりの存在にすぎないのではないか。そしてそうであれ ば、布ではなく、糸こそが見たり觸れたりする眞實の對象ではないのか。この考えを推し進めると、當然その糸さえも疑 わしい存在となってくる。なぜなら布が糸の集合であるように、糸も繊維の集合であるから。かくして存在の分析は、も はやそれ以上分解し得ない原子 (paramanu) を要請してはじめて一應の理論的落着を見せる。しかし、原子を要請すると なると、ここにもうひとつ別の素朴な疑問が生じる。原子など實際には見えていないのに、それが一體どうして知覺對象 であるなどといえようか、と。 我々が知覚しているのはいったい何か。全體か、原子か、それともどちらでもないの か。インド流の「部分か全體か」の議論は、こうして始まるのである。 「知覺對象は事物の全體 (avayavin) である」――これがニャード・ヴァイシェーシカのテーゼである。これに對して佛 教知識論學派は、經量部 (Sautrantika) の立場から「全體は概念化された表象に過ぎず、其實の知覺對象は、部分、すな わち部分の究極相たる諸原子の顕現相にほかならない」と主張する。あるいは純粋意識のみの世界を說く唯識(Vijmánavadin)の立場にレヴェルアップして、原子さえも否定する。 いづれにせよ、 佛教知識論學派は全體など無用の長物であ
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
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Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
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