SearchBrowseAboutContactDonate
Page Preview
Page 18
Loading...
Download File
Download File
Page Text
________________ するヴィヨーマ シヴァ (ヴァイ シェーンカ學派)の『ヴィヨーマ ヴァティー』であろう。彼の佛教批判は次のようにまと 2 められる(取意)。 佛教の「存在關係 (vrtti)による論法」は正しい知識手段 (pramana) でない。なぜなら「存在關係があり得ないか ら全體は存在しない」という見解は、自立論證(svatantrasadhana) としても歸謬論證(prasaigasadhana) として も成立しない。もし(1) 自立論證であれば、(イ) 式の結論は「全體という主題は存在しない」であろうが、しかし この命題において主語と述語、すなわち「全體」と「存在しない」は矛盾する。ちょうど目の前に存在するものを 「これ」と指し示し、しかも「これは存在しない」と言うのと同様に矛盾している。また(口)證因は非實在の誤謬を 犯すことになる (hetor asrayasiddhatvam) という點でも自立論意ではあり得ない。佛教徒は全體という主題を認め ないから。同様に(ハ) 佛教の見解では色等は存在するとされるが、そうであれ ば、「存在關係があり得ないから」 (vrttyanupapatteh)という證因は逸脱(不確定)である。なぜなら、彼らの見解によれば、「存在關係があり得ない から存在しない」は「存在するものは存在關係をもつ」と同義となろうが、彼らの認める色等は、存在しても存在。 係をもつとはいえない。佛教徒は存在關係すなわち內屬(samavāya) を認めないか ら で ある。 そこで、佛教徒が (二) 「論證式は歸謬論證、すなわち他學派(ヴァイシェーシカ)の遍充關係によって、その學派にとって望ましくな い結論に陥らせるものである。だから歸謬であれば全體は主題となり得る」と反論したらどうか。否。なぜならこの 場合、もしヴァイ シェーシカが(イ)正しい知識手段 (pramana)にもとづいて全體を理解したのであれば、まさに その正しい知識手段によって全體の非實在性は拒斥されるから、佛教の主張するような倒錯した推理の餘地はない。 ...(n) 佛教徒が、ヴァイシェーシカは正しい知識手段でな いもの (apramána)によって全體を理解したにすぎな い、と反論したらどうか。否。なぜなら、正しい知識手段 (pramana) なしに認識對象 (prameya)は確立しないか 部分と全般 六二三
SR No.269522
Book TitleBhava And Svabhava 01
Original Sutra AuthorN/A
Author
Publisher
Publication Year
Total Pages30
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size3 MB
Copyright © Jain Education International. All rights reserved. | Privacy Policy