Book Title: Kamalasila Nyayabindu Purvapaksesamksipta Author(s): Hiromasa Tosaki Publisher: Hiromasa Tosaki View full book textPage 7
________________ Kamalasila PF Nyayabinduparvapakşesa mksipta 483 (和訳) 『正理一滴』における前主張の集録 諸世尊の主に敬礼します。 ( 2) (5) (6) CI-1-1-A] 誤った見解 (vipratipatti) に四種ある。数(samkhya) に関する誤った見解と本 質(svaropa)に関する誤った見解と対象(gocara) に関する誤った見解と(量)果(phala) に関する誤った見解とである。 CI-1-1-B] そのうち、数に関する誤った見解はつぎのようである。すなわち,ブリハス パティ派 (Barhaspatya) は「ただ現量(pratyaksa) 一つのみが量(pramana)であって,他は (量では)ない」という。数論学派 (Samkhya) は「現量と比量 (anumana) と語にもとづ く知(sakeda) との三つのみが量である」という。正理学派 (Naiyayika) は「現量と比量と 比ゆ量 (upamina) と語にもとづく知との四つのみが量である」という。ジャイミニ派(Jaiminiya) は「現量と比量と比ゆ量と語にもとづく知と義準量 (arthapatti)と無体量(abhava) との六つのみが量である」という。チャラカ (Caraka) 等は「理論 (yukti), 不認得(anupalablhi), 随生量(sambhava),伝承量 (aitinya),直観 (pratibha)という他の量もある」とい う。 [1-1-i-C(a)] 前述の(四つの誤った見解の)うち,本質に関する誤った見解はつぎのと おりである。すなわち,正理学派は「現量はすべて決知 (vyavasaya) を本性とするから, 有分別(savikalpaka) のみである」という。ジャイミニ派は「(感官を対象に)向けた最初 の刹那の知のみが分別なく生じ,その後の現量はすべてまさに有分別である」という。同 様に他の者たちは「ほら貝を黄いとみる知等の迷乱さえも(現)量である」と許す。同 様に、勝論学派 (Vaisesika) 等は「(現量は)知を本質とせず,(ただ)感官と対象との結合 である」という。或る者は「アートマン(atman) と意 (manas) との結合を本質とする」と いう。他の者は「現量は耳等の感官の働き (vitti) を本質とする」という。 [I-1-i-C(b)]同様に、アヴィダカルナ (Aviddhakarna) 等は「意に属する知、(manasa) と いわれる現量が量であることは不合理である。もし(意に属する知さが)さきに現量によ って把握されたものより他でないものを対象とするのであれば,それは既知のものを把 握することになるから,量ではない。もし(意に属する知、の)対象が他であるならば, それ(=意に属する知)は(感官知とは無関係に)独立に(対象に)働くことになり, (10】 (1 ) (12) (13) (14) (15) (16)Page Navigation
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