Book Title: Kamalasila Nyayabindu Purvapaksesamksipta
Author(s): Hiromasa Tosaki
Publisher: Hiromasa Tosaki

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Page 8
________________ 484 HIROMASA TOSAKI (17) (18) (19) (20) (しかも一意に属する知、は)一切を対象とするものであるから,盲人等の存在が決して ないことになろう」という。毘婆沙師 (Vaibhasika) 等は「自証現量も合理でない。自己に 対して働くことは矛盾であるから」という。ジャイミニ派はいら:「すべての人間は食 (ra. ga) 等と無明 (avidya) とによって惑乱されている。この世の人々でそうでない者は決して 存在しない。感官の及ばない対象を知覚する手段はどこにもないから、(そのような対象を 知覚するといわれる)ヨーギン (yogin) も存在しない。(もし存在するならば、人々はその ような者を)現量等の量によって知るはずである(が、知られない)。それゆえに,感官の 及ばない対象を知覚することはありえないから、ヨーギンの知も(量として)決して存在 しない」と。 CI-1-i-D] 前述の(四つの誤った見解の)うち,対象に関する誤った見解はつぎのとお りである。すなわち,正理学派等はいう:「共相 (samanya) が実有 (vastu)であることは正 しいから、またそれ(=共相)は現量によって決知されるから,それゆえに現量は共相を も対象とする(とみなすのが合理である)。同様に、アートマン等は自相(svalaksana) を本 質とするけれども,比重によって決知されるから,比重もそれ(=自相)を対象とする量 である(とみなすのが)合理である」と。 [1-1-i-E] 前述の(四つの誤った見解の)うち、() 果に関する誤った見解はつぎのと おりである。すなわち、ジャイミニ派等はいら :「世間においては,所成(sadhya) と能成 (sadhana) は相互に別体であると一般的にみとめられているから,(量)果は量とは異なっ たものである(とみなす)のみが合理である。まさに斧は切断ではない。 それゆえに,真 実にはそれ(=知)は四種のものがあってこそ完全である。すなわち,重者 (pramatr)と, 所重(prameya) と量(pramana) と認識(pramiti)とである。そのうち,最者とは人間であ る。所量とは色等の対象である。量とは感官等である。認識とは対象の決知である。(ある いは)知のみを量(とみなす)場合には,その場合は後につづく知が(昼) 果であり,そ れぞれ先行する知が量である。(すなわち)共相等なる限定物 (visesana) の知が量であり, 実 (dravya) 等なる所限定物 (visesya) の知が(量)果である」と。. [I-1-i) 現量についての以上のような誤った見解をもった他者が多く存在するから,か れらを破すために,(正しい)あるべきこの定義がなされたのである。 [I-2-1) 世尊によってもつぎのように述べられている。すなわち, 比丘たちよ、賢者が熱したり,割ったり、磨いたりすることによって黄金を (手に入れる)ように、わたしの言葉を了知したのち受け入れるがよい。尊敬 の念のみによって(受け入れてはなら)ない。 といわれているように。 (21) (22) (23)

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