Book Title: Spiritual Place Of Epistemological Tradition In Buddhism
Author(s): Ernst Steinkellner
Publisher: Ernst Steinkellner

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Page 17
________________ 「仏教認識論の系譜の精神的地位」 (清水) ディグナーガの理解にみがきをかけたダルマキール ティ及びその後の伝統ではこれを証明としてとらえ, 佛陀は 「プラマーナとなっておられる」 という命題は 二つの論証理由究極的な目標とそれに至る道を知 り得たという自証の知の側面と,その目標や道程を求 める他の有情を欺かないという完全なる慈悲に根ざし た確実さに依って証明されるとする。 ダルマキー ルティが, 証明という関係でとらえようとしたことに ついてシュタインケルナー博士は, 「佛陀が正しい認 識根拠であるということ, 換言すれば佛陀の言葉の権 威というものを証明することが, 佛教の正しい認識の 理論にとって重要であることは明らかであると思え る」とされながらも, 更に服部 永富博士の見解を引 かれて追求されている。 服部博士は, ディグナーガは自らを佛陀の批判的精 神の真の継承者であるとし, 彼によれば経典は無条件 に確実なものとは認めえず, (他学派ではこれを 「聖 教量」 として無条件にみとめるが, 佛教認識論ではこ れを排除し, 「現量<知覚>」 「比量<推理>」 しか 認めていない), 佛陀の言葉の正当性を認めるには‘批 判的検証が必要である, と言われている。 シュタイ ンゲルナー博士は,この言明は一般的なものとしては 正しいが、佛陀の言葉と正しい認識手段の正当性との 関係としてとらえることは出来ず, もしそう考えれば 誤った結論を導き出してしまう。 それは‘批判的検証” という表現であり,これが二つの意味佛陀の言葉 というものが正当であるという命題を考察し議論を通 して確立すること, 彼はそれらの言葉が真であるのか 偽であるのかを判断する手続きに解しうるから だとされている。 服部博士の言を受け後者の意味を 採られた永富博士は、 佛陀の言葉を検証するにはブラ マーナという手段が必要であったが,これは独断を離 れ万人に普遍的に認められるようなものでなければな らない。しかし一方でそのブラマーナの体系の正当性 を主張するとき基づいた最終的な権威は ‘信仰により 権威が認められた' 佛陀の言葉に他ならず, 「したが ってプラマーナの体系と佛陀の言葉の権威の間には, 前者は後者の範囲の中でなされ, 後者は前者によって 支えられるべくあるというような“互恵的な関係' があ る」とされ, 「ディグナーガの認識論的方法論は, “知恵の探究” ということを, 佛陀の言葉から引き出さ れたその原型を認識論や論理学 意味論の語彙に翻訳 することにより明瞭に表現しようとしたものである」 と結論されている。 17 永富博士が‘互恵性”を感じられたのも或いに当然か も知れぬが,その説明は表面的でしかない。 社士が, ‘信仰により’佛陀の言葉が権威あるものとされたと言 われたことと, ディグナーガやダルマキールフィは佛 陀の言葉を無条件では認めなかったと博士や)部博士 が言われたこととには明確な食い違いがある。 博士の 論旨は、ディグナーガ達はプラマーナを使っ佛陀の 言葉の真偽判断をしようとしたということであり,た だその手段としてのプラマーナについてその当性が 佛陀の言葉から抽出され, これについては信仰によっ て認められていたということである。 そして結局博士 は, 佛陀の権威はプラマーナの体系によってえられ ていたと考えておられるのである。 故に 「正しい認識 の理論と佛教の解脱ということとの関係についての理 解は不充分である」 とシュタインケルナー博は評さ れる。 しかし実はこれ以前にダルマキールテの註釈 に従ったT. フェッターが十全なる説明をし ていたの である。 シュタインケルナー博士はT. フェッター解説を 引用し <Appendix I>, 概ね次のように説明されて いる。 佛教徒の活動は解脱という目標に向けられている が、この目標に至るには確実で正しい認識というもの が必要とされる。 佛教認識論にとって 「正しい認識手 段プラマーナ>の特質を明確にしようとすば,そ れが有意義な活動 (avisamvadana) であるかどうか という検証に耐えねばならない。」 勿論解脱という 目標もそれに至る道も佛陀によって提示されたもので あり, 又知覚や推理という普通の認識手段によって導 き出せるものでもない。 しかし陀の言葉というだけ では, それが真実であるとは限らぬし, そういうこと だけで佛陀の言葉に従ったところで成功は保障されな い つまり有意義であるとは限らない。 したがって有 意義な活動であるのかどうかということは — その人の権威により人は何が有意義な活動であるのか を知りうる, そういう人 と関係づけられねばなら ない。」 つまり佛陀自身によって証明されねになら ないのであり,そして事実なされていたのである。 即 ち, ダルマキールティは佛陀の権威を 「佛陀はプラマ ーナとなっておられる」という命題の証明として追求 したのであるが, 実はこの証明は佛陀が佛陀なら れたその過程─二つの論証理由として示されたも の, ディグナーガでは因位果位の成就 に言及する

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