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________________ LARSANA の機能対象 LAKS YARTHA (II) (小林) 39 見解に反論するためにすぎないのである。 ところで、この他の学者とは、外ならぬ Mukulabhatta なのである。しかも、反論す る側の KP vrtti が laksana の一般的機能を敷衍するため suddha にふれているのに対 し、この反論の直接の対象となる Mukulabhatta の論議は,まさに他の laksana カテゴ リーとの差異を論ずるために, suddha の機能を規定したものなのである。 一「“gaur vahikah" においては、く類似という結びつき>によって, takyartha と laksyartha の間の同一性 (abheda)が理解される。 ところが Suddha の場合は, vacyartha と laksyarthaの間に差異(bheda)が理解される一 . すなわち Mukulabhatta は,「suddha laksana とは二つの意味 (mukhyartha とlaksyarthaと)がく離れている場合>(tatasthe) である」27)という。特定の文脈の中 で,『流れ』が『岸』に、あるいは『槍』が『男』に転義されるとしても,二つが同じものだ とは意識されず,『岸』『男』はやはり『流れ』『槍』とは違ったものとして理解される。 ところが KP vrtti は, [upidana と laksana において,このような ≪隔離性多 は 存在しない」という。 この二つの議論の差異はどこに原因があるのか。 基本的には,≪隔離性>という概念 を用いる際の態度が,両者の間で全く異っているのである。Mukulabhatta が,文脈的意 味の論理的価値のみに着目しているのに対し、KPv. は,その文体的価値に着目している。 Mukulabhatta は,≪本来の意味とは違った論理的価値をもつものとして, laksyartha を見ている。“ganga” および“kunta” の laksyartha 『ガンジス河の岸』および『槍を 持つ男』は, それぞれの本来の意味>『ガンジスの流れ』, 『槍』から, 論理的には独 立した純粋な観念である。Mukulabhatta は, mukhyarthat laksyartha との論理的 価値の差を指摘するために, tatasthya という語を用いたのである。一方 KPV.の指摘 せんとしているのは, laksyartha が理解される場合,文脈の中で定められる 論理的価値 の外に特殊なニュアンスが理解されるということ, laksyartha には特殊な文体価値があ るということである。すなわち KPv. によれば, 「mukhyarthaから隔離したものとし て laksyartha を理解したなら,話者の云わんとする <意図》(prayojana) が理解さ れない」という。 特定の文脈の中で“ganga" の意味を『ガンジス河の岸』として理解す る場合,それを単に《本来の意味から隔離した論理的価値としてのみ理解するなら, "ganga-tata" という語を理解するのと同じことになる。 論理的価値の外に,<冷たさ> <清浄さ> というニュアンスの理解がともなってはじめて,話者の意図≫ が実現され るのである。このようなニュアンスは本来の意味からの連想によって得られる。し たがって,文体的価値という点において, laksyartha は mukhyartha から断絶したも のではないことになる。 この立場に立って KP v. は, upadana および Laksana におけ る tatasthya を否定したのである。 karika の分類は、ほとんどそのまま Makulabhatta に従っているにもかかわらず, vrtti はここで、わざわざ異った見地に立って, Mukulabhatta を否定する姿勢をとって いる。
SR No.269360
Book TitleLaksana Laksyartha
Original Sutra AuthorN/A
Author
Publisher
Publication Year
Total Pages24
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size2 MB
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