SearchBrowseAboutContactDonate
Page Preview
Page 7
Loading...
Download File
Download File
Page Text
________________ sPob po ra sgan (=sPo hbor + Ra yul) gan ba la srid pa Phyvahi mkhan rjes dban byas No. 18 gshi thog ma/dMu dan Phyva gñen pahi tshe/). dMu Bod rus chen (BKK) Se, rMu, IDon, sTon 1995'gNaḥ khri btsan po yid bshin nor bu & Bon po chos byun (f. 26 a ~27b) PSTAでのrGyal po bkah than Report of the Japanese Association for Tibetan Studies God を含む) た」としているのを併せて見ると、遠祖が関わ一力であったと思われる。 りをもった Bd yul gtsai ma や Bod ka gyag ・中国では Phyvah の夫々の勢力をいずれも から成るという。 drug は模徒、Bod drai po であることがわか|「発」で呼んでいたとしたら混乱を免れなかった Yar luh 王家の遠祖は、この Bodの西側にあーる。同じことを、 であろう。特に Yar lun から興った Phyvah 部に る Myas (rTsai stod), rKoi po, sPo o の地と | Bod hdir dah o mi med / mi ma yin gyis | 限定を加わえるとしたら、先ず「南の発」“Ho深いつながりをもったらしい。Gri gum btsan w | Phyvah”と云ったであろう。 更に Phyvah の音 に先立つ最盛期にはこの Bod を領有したのかも。 に「蕃」の観念を重ねて最終的に「吐蕃」の字を 知れない。これをNag khri btsan PO による | と Bu ston chos byyuh (vol. Ya, 123 a)も示し一 選んだとすれば、決して不当でない一つの解釈が Bd ka g-yag drug の征服で表わしているのであつている。 成立するのではあるまいか。 ろう。隋に知られた頃の Yar lun 王家は、再び一 この Phyvah を Pelliot 文書の一二六は dMu 昔日の栄光を取りもどし、やがて Bod を国号と 一部族と婚姻関係で結びつけている(gnah dai po/ するに至ったのかと思われる。しかし、当初に 「不夜」sPu rgyal の名が伝えられていたのだか 十地における法師の体系 ら、当時、Bodの国号が用いられていたわけはな い筈である。 が dMu を母方としていたことは bGad mdzod -チベット訳十地経論に 旧唐書には「以売髪」為国号/靴謂之吐密」 よる補足的理解| とあり、新唐書には「番発声近、故其子孫日吐 酵」とある。「番」の音にも近いものとして編者 | (f. 18 b)に両部族の婚姻関係は明示されている。 は「髪」や「発」を見つけて来たのである。これ Phyvah は後代では神と混同された (dPaho gtsug. 伊藤 瑞叡 らの古典音は夫々piwot / piwot / piwon となり、 Ja. 5 a~b)ことも事実であるが、部族を表わす 共通音は piwb である。筆者はこの対音に sPu 「名称であったことも確かで、その点は「蘇眠」 大乗仏教において菩薩についで重要な地位を占 氏を含む部族名 Phyvah を提出したいと思う。」 Sehu-Phyvah の場合にも明瞭に認められた(「蘇 めるに至る人格概念に法師 (dharma-bhánaka, Pelliot 文書の一〇三八には sru rgyal Bon gyi | 肌の領界」pp. 28~29)。 chos smra ba 説法者)というのがある。大乗諸 | 「」と結びついている「吐」については、理 経典の各所で関説されるそれは菩薩の基本的側面 を摘示するものの如くであるが、近時の研究によ く“Ho” を対音に想定したい。勿論、“Ho- ると大乗の特質たる宣伝性を担うと同時に、大乗 rgyal の祖がこの称で示される。また rKoi poの Bod'”ではなく、“Ho-Phyvah” の形である。 経典の製作流布に主導的役割を演じたと仮定され | “Ho” は唐落会盟碑の中で「土」によって写さ」る理想的人格に対する呼称でもある。 bla bdag drug...”とし、Gyal rabs bon pol れているから、同音の「吐」が“Ho”を示した ところでかかる法師の理想的形態というものが (f. 10) でも“Phya rje Yab lha bdal drug”と」として問題はない。“Ho”は元来、南寄りの 大乗菩薩行の根本体系と看做しうる十地にあって している。更に遡ったところで Phyar rje sTag 一国を示してIHo Mon”, “Ho-Bal”などと用い は如何に構想され如何なる体系を呈しているかと tsha hal hol (rLaris Po ti bse ru, f. 4a) とも られた。また、gTsai o 江の南岸地帯を“Ho いう興味ぶかい課題がありうる。そこで十地の教 示している。 kha'” の称で呼ぶことも周知の事実である。 Yar 説の演義解釈を目的とする十地経を精査すると、 また、Pelliot 文書二二一八では、 lui はこの IHo kha に含まれる地である。最も重 各地の経文の末尾に法師の在り方を体系的に示す 要なことは、Yar lui 王家と同祖の iKoi rje dkar 一定の文面が組織的に加工されていることを知 po がその東北にあり、更にその北には rTsat 一る。その文面系列について Skt. 原典、Tib. 訳、 とあって、 Pelliot 文書一〇三八の後続部に、「彼 rjehi Thod kar (p. 1286. 1290)があって sTsai シナ訳諸本を比較検討し、法師の体系の内容構造 等が“yul Bod ket gyag drug に至ったといわ」 rjehi Phyvab (p. 1060) と呼ばれていたことであ を追究すると、その諸要点の配合連関が左図の如 れ、その系統をsPu と呼び、 sPu rgyal といっ」る。後者は「春賦」の Phyvah 部で、かなりの勢 | く明になる。 btsan po ltiņu rgyal po Thod rgyal byun ste ... srid pa kun la miah mdzad pah / Phyrahi田が yan Phyva legs çes kyan mchi vo sPu 円 頭出(「台詐区深a」p.3) リビン 魅 トップ Yar luh SEA thog ma Phyva Ya 1972 gnah gdod ma Bod yul gtsan ma Phyvahi sa bskos. March 31,
SR No.269269
Book TitleTibetan Studies In India
Original Sutra AuthorN/A
AuthorV V Gokhale
PublisherV V Gokhale
Publication Year
Total Pages8
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size2 MB
Copyright © Jain Education International. All rights reserved. | Privacy Policy