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________________ 第十八号 122 十地 日本西蔵学会々報 することである。 とされているが、それは ADV で分類される三種 さて先ず見仏についてである。見仏とは一般に の供養の中、利養の供養 (ried pahi mchod pa= 仏を見ることを意味するが、普遍性を要求される labha-piji)に相当する。 また仏に対する供養は 経文にあっては、可視的な色身を具える歴史的人 経文には「恭敬する、尊重する、承事する、供養 格としての仏を直接に予想することは不合理であ する」とあるが、それについて ADV では「恭敬 る。それゆえ第八地以後の見仏が aaaの各文面 (bsti stah byed pa = satkira)とは三種である。 において三昧という心理的特殊情況における自覚 尊重 (bstun par byed pa=gaurava)による恭敬 的事実とされている点については疑義の余地はな とは称揚讃歎によってその功徳を説くことであ い。しかし前七地のaの文面においては、広大見 る。承事 (ri mo byed pa=mānani)による恭敬 (audarika-darsana, lta ba rgya chen po)と願力 とは恭敬をもって語ることと礼拝などである。供 (pranidhāna-bala, smon lam gyi stobs) との二条「養による恭敬とは花・散香・無香・蓋・瞳・ な 件によって見仏の可能する旨が説かれているた どである」と註解され、真実なるものへの自己投 | ||| | | | | | | | め、その趣意は経だけでは判明しがたいのであ一 企を意味する恭敬という精神的態度に力点がおか る。それは ADV では「広大見とは殊勝なる威力 れているから、供養がその実践的表現として理解 (mthu khyad par can)によって色身 (gaugs kyi されているといえよう。この理解は歴史的人格と 右の図式の中、アルファベットは内容を類別し sku=rupa-kaya)を見るところのものである。願 しての仏が現存しない今日では現実的妥当性をも たものであり、アラビア数字その他は内容の変化 力によってとは自内の正願 (rai gi yai dag pahi |ったものであろう。それはまた三種の供養の中で 進展を種別したものであるが、それらは相互に十 smon lam=adhyatma-samyak-pranidhina) にょ」は恭敬の供養 (bkur stibi mchod pa=satkara-p.) 地の次第に応じて、例えば有功用性とされる前七 って法身 (chos kyi sku= dharma-kaya)を見る」と信などによる修行としての修行の供養(sgrub 地と無功用性とされる八地以後など十地の内容の一 ことである」と註解されている。これによると広 | pabi mchod pa=pratipatti-p.)に相当する。 動向に対応して、秩序だった有機的連関をおりな一 大見とは勝れた精神力によってその諸状況におい 次に法師の体系において法の聴聞と領受につい している。 て仏の実在をリアルに感じとる広大なる識見を、一 で第三の条件となる法の修行と成就あるいは保持 そしてその連関を総合的に把捉すると、一往の一 また願力によって仏を見るとは自らの根源的にし、 についてであるが、殊に第六地第七地にあってそ ところ法師とは十地においては、第一にaへ見仏一て誠実な願を力として仏の内的精神に触れること」の完成の段階を示すの文面の趣意についてであ (buddha-darsana) と供養 (pija)V、 第二にb| を意味すると解せよう。他方「仏を見る」という一 る。その Skt. 原文は諸訳検討すると「聴聞して へ法の聴聞 (Gravana)と領受 (udgrahana)V、| 見仏の概念は経文では「多くの仏が現われる」と 〔その所聞を如実に等至にもとづく般若と智に 第三にcへ法の修行 (pratipatti)と成就 (samps- | 換言されているが、それは ADV では「善巧なる よって照し見ることにより勤修し修行によって保 dana)あるいは保持 (ādhārana)V、第四にd 方便 (thabs la mkhas pa=upiya-kausalya)によ 持する」と読解するのが妥当である。これは ADV へ法の総持(dharani)と説示(nirdesa)V、第五に って多く[の仏」を示現するからである」と註解 においては要約すると、殊勝なる三昧に依止する eヘ法の説示または問答(pariprechi-nirdesa)V、 されている。すなわち仏が菩薩の広大見と願力と 観 (Ihag mthon=vipasyana) と止 (shi gnas= これらの次第を各地に応じて反復しながら漸次に に応じて自己を示現するのは、善巧なる方便によ samatha)によって所聞の法を如実に照し 見るこ 自己完成してゆくものとして体系化されていると一るというのであるが、合理的な解釈といえよう。 とにおいて勤修することが原因となって義陀羅尼 結論されうる。 次は見仏に就く供養についてである。それは経一(don gyi gzuis=artha-dharani)が得られ、さら ところで問題は右の諸要点となる各経文中の内一文では「仏に対する供養(pija, mchod pa)」と に修行によって義陀羅尼の障を解脱して所開の法 容不明なものについて、また法師の体系について 「菩薩 に対する供養」と「僧伽の衆 (samgha'| の義が証得される、と解されているといえる。す のより透徹した理解を期するために、世親の十地 | gana, dge hdun gyi tshogs)に対する供養 なわちらは義陀羅尼の獲得を示すと見られてい 経論 (Arya-dasabhūmi-vyakhyana)の Tib. 訳 | (sammana, yan dag par mchod pa)」とに三分一る。ところでこの法師の体系にあっては第五地に Hphags pa sa bcubi rnam par bad pa (abbr., | されうるかに見える。その中、仏、菩薩、僧伽衆」 おいて聞持陀羅尼 ($ruta-grahana-dharani)を得 ADV)の見解を探索し少しくそれを補足しようと」に共通する供養は衣服飲食など生活上の物的資具 | た聞持法師 ($ruta-dhari dharma-bhanakah)とな 昭和47年3月31日 (3)
SR No.269269
Book TitleTibetan Studies In India
Original Sutra AuthorN/A
AuthorV V Gokhale
PublisherV V Gokhale
Publication Year
Total Pages8
LanguageEnglish
ClassificationArticle
File Size2 MB
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