Book Title: Vaisesika Dignaga
Author(s): 
Publisher: 
Catalog link: https://jainqq.org/explore/269359/1

JAIN EDUCATION INTERNATIONAL FOR PRIVATE AND PERSONAL USE ONLY
Page #1 -------------------------------------------------------------------------- ________________ VAISESIKA.の知覚説に対する DIGNAGA OULU (I) 服部 正明 Pramanasamuccaya 第1章は知覚(pratyaksa) を考察の主題とするが,他の章に於 いて Dignaga は先ず自らの学説を論述した後,諸学派の知覚説を批判している。その際 批判の対象として取り上げられるのは,何れも各学派に於ける知覚の定義で, Dignaga は其等の定義中の一語一語を厳密に検討している。 例えばVadavidhi に於ける tato 'rthad vijnanam pratyaksam という知覚の定義については, tatas, arthat の意味をあ らゆる面から考察して此の定義の不備を指摘するが,之と相似た方法によって Nyayasutra (NS) I, I, 4, Samkhya O Varsaganya 105713 srotradi-vrttih pratyaksam という定義, 及び Mimamsasutra I, i, 4 が彼に吟味され批判されている。 ところが Vaisesikasutra (VS) に於いては、知覚の条件や特質が諸所に散説されてい て、それらを総括的に定義として述べた特定の sutra は無い。 Prasastapada に至ると知 覚が明確に定義され分類されるが, Dignaga はそれを取上げていない。Sarakhya の知 覚説を批判するに当っては,Vargaganya の外に Madhava の異説を挙げ,Mimamsā 批 判に於いては Sutra 以外に Vrttikara の説にも言及し,更に Vaisesika 批判中にも Sutra に対する諸註釈者の見解に触れている Dignaga の態度から考えると, 恐らく Pratastapada は年代的に Dignaga に先行する学者ではなかったのであろう。以下の 和訳解説によって明らかにされる様に, Dignaga は, Vaisesika の知覚説が,基本的に は我 (atman)・感官 (indriya)・統覚器官(manas)対象(artha) なる四要素の接触 (samnikarsa)という点にあることを認め,それとの連関に於いて VS の諸所に説かれた 知覚説を批判するのである。 Dignaga は先ず次の如く Vaisesika の学説を紹介する。 CAaj K 996.6-8, V 192.7-196.1 (19a. 1-2). cf. J 53a.3-536.5 (596.4-60a.8) Vaisesika 学派の経典中には、ともかく,先行する sutra とのコ或る関係によって) 【意味が刀 完成される,実体(dravya) に関する知覚の定義がある。即ち, コ「我・感官・ 統覚器関・対象の接触によって成立したものはが,...推理とは別のものなる知覚) である」...と言うのである。 Page #2 -------------------------------------------------------------------------- ________________ インド学試論集1 Dignaga dists t olt VS, I, i, 18 : atmendriya-mano-10) 'rtha-samnikar. sad yan nipadyate tad anyat である。「或る関係によって」という語について Jinendrabuddhi は,「註釈者の見解の相異によって C此の sutra の先行する諸 sutra に 対する] 関係は様々である,」と述べている。元来此の sutra をふくむ VS, I, i, 1-19 は atman の存在を論証せんとするものであるが,此の sutra 中の「他のもの」(anyat)と いう語は,先行する諸 sutra との関係から意味が決定せらるべきなのである。Jinendrabuddhi は此所に此の sutra に対する二種の解釈を紹介している。第一の解釈として,先 ず「prasiddhi は atman の証相 (linga) である,」と述べられる。 これは明らかに VS, I, i, 2 : indriyartha-prasiddhir indriyarthebhyo 'rthantarasya hetuh ( O seti 普く知られていることは感官の対象以外のもの[即ち atman] がある証拠である)の要約 である。Saikaramitra は此の VS, I, i; 2 を次の様に解釈する。 prasiddhi は結果 であり属性であるから何物かに依存している筈であり,また作用であるから何らかの作具 によって生ぜられたものである。そして作具はまた作具の使用者(prayoktr)を予想せし める。 prasiddhi が依有しているもの、そして prasiddhi の作具なる感官の使用者が 18はその後に置かれているのである。 さて,Jinendrabuddhi の紹介する第一説は次の 様に続けられる。Sprasiddhi は知識(jñāna) に外ならないから197,それは無常なる ものであり,従って或る原因によって成り立ったものである。そして,例えば粘土を素材 として造られた瓶が,粘土とは別のものである様に,或る原因によって成立したものはそ の原因とは別のものでなければならない。かくて知識はそれを成立たしめる原因 即ち我等 の四要素とは異る他のもの(anyat) なのである。此の解釈に従えばVS, In, i, 18 の意味 は、「我・感官・統覚器官・対象の接触によって成立するものである知覚)は、それを 成立せしめる因、即ち我等の四要素とは)別のものである、」となる。 此の解釈に於いて はVS, I, i のはじめに説かれたprasiddhi が知覚と見做され,従って推理の説明の後に VS, I, i, 18 が述べる「我・・・・の接触によって成立するもの」は、当然さきの prasiddhi 即ち知覚を意味すると理解されているのである。 ウに対して Jinendrabuddhi の第二の解釈によれば, VS は此の sutra に先立って推理 に関する考察をなしているので、推理のみが知識根拠であるか否かという疑問が起るのを 予想して、此の sutra が述べられたのである。従って,「我・感官・統覚器官・対象の接 触によって成立するものは,推理とは別のものなる知覚)である」というのが sutra の意味である。此の二種の解釈の中で、後者が採用せらるべきであるとJinendrabuddhi は記している。 さて Dignaga は VS, I, i 18 を「実体に関する知覚」の定義として取り上げたが, Vaisesika の定説によれば、属性(guna)等の知覚は実体の知覚に基くのであるから'), 実体の知覚に関するVaisesika 説の批判は、他の範疇に属するものの知覚についても適 用することが出来るのである。 そのことを Dignaga は Vaisesika を批判する此の一節 Page #3 -------------------------------------------------------------------------- ________________ VAISESIKA の知覚説に対するDIGNAGA の批判 (服部) 11 25 の最後の部分に明記している15)。 知覚の条件たる「接触」について註釈者の間には次の様な見解の相異が見られる。 [Ab] K 996.8-1002.1, V 196.1-2 (19a.2-3). cf. J 536.5-7 (60a.8-606.3). 或る者は,〔四要素の接触によって生じた知が知識根拠 (pramana) であれば,それ によって生ぜられる結果(pramana-phala)を別に認める必要がなくなるので,】結果 は知識根拠とは別のもの(arthantara)であると考え,[知覚という結果に対しては,】 感官と対象との接触 (indriyartha-samnikarsa) が[推理や想起の場合とは] 共通でな い因(asadharana-hetu)であるから,しそれが幻知識根拠と理解さるべきであると言う。 他の人々は,我と統覚器官との接触(atma-manah-samnikarsa) が「知覚の] 主要 | 因(pradhana) であるから,「それがコ 知識根拠であると言う。 我等の四要素の接触によって成立したものは知識(jñāna) であるから,それ自体知識 作用の結果であり,之が作具 (karana)となって新たに別の結果を生ずるのではない。知 識根拠とそれによって生ぜられる結果とを区別する立場から言えば、知識根拠は接触によ って生ぜられたものではなく,接触そのものでなければならない。此の知識根拠としての 接触について,見解が二種に分れるのである。 感官と対象との接触を知識根拠となす第一説は, Jinendrabuddhi によって Srayaska (? sra ya sa ka) 等に帰せられているが,此の人名については知られるところが無い。然 し此の第一説は NS, I, i, 4 に知覚を「感官と対象との接触によって生じた知」(indriyarthasamnikarsotpannam jiānam)と定義しているのに一致する。感官と対象との接触は, 知覚の場合にのみある特殊因 (visista-karana) なので、知覚の定義に於いては,推理等 にも共通する他の要因を除いて,此の二要因のみが挙げられる, と Vatsyayana は註釈 している。 我と統覚器官との接触を知識根拠となす第二説は,Jinendrabuddhi によればRavana (dbyans, can pa)等の主張するものである。 Ravana は Pratastapada に先立つ Vaisesika の学者で, VS に対する Bhasya を書いたと伝えられるが177, 此の書は現存 しない。ともかく第二説は次の如き観点に立つのである。一我は知識の主体であり,知 識を証相とし、知識のもたらす結果の享受者であるから、知識の主要素と考えられる。ま た統覚器官は,感官が夫々に固有な対象をもつのと異って,一切を対象とするものであり, 知識と同義関係 (ekartha-samavāya)にあるから,之も知識の主要素である。従って我 と統覚器官との接触が,知覚を生ぜしめるための主要因と考えられるのである18)。 さきに述べた様にDignaga は、知覚を我等の四要素の接触によって生じたものとなす VS, I, i, 18 が, VS の他の個処に於ける定説と相容れぬことを指摘するのであるが,彼 の批判は次の様にはじめられる。 [Ba] k 100a.1-3, V 196.2-3 (19a.3-6). cf. J 536.7-54a. 6. (606.3-61a.3). | 斯くの如くならば,「疑惑 (sarisaya) と確定(nirnaya) との知識の成立は199,知覚 Page #4 -------------------------------------------------------------------------- ________________ インド学試論集I | と推理との知識(に関する説明〕 によって既に説明された,」と CVS, X, i, 3 に 190 述 べられているのに矛盾する。 四〔要素]の接触によって生じた知識と,確定によって1) 生じた知識とは同じでは ない。確定は思惟 (vikalpa) に先行され,[之に反して、四要素の接触によって生ぜ られる知覚は、純然たる対象の直観 (visayalocana-matra)だからである。 純然たる 対象の直観は,四〔要素]の接触によって生ぜられ [る直接経験 (anubhava) であっ て], どうしてそこには直観された対象の上に普遍 (samanya)等を附託 (adhyaropa) 「する] 思惟・考察があろうか。 疑惑はVS, I, ii, 17 に「一般相を知覚して特殊相を知覚せず,且つ特殊相を想起する ことにより疑惑がある、」と説明されている。 従って疑惑は,証相 (linga, 例:煙)の知 覚と,証相と証相を有するもの (lingin, 火)との結合関係の想起とに基づく,未知覚の 対象(遠方の山の火)の推理と,その成立過程を同じくしている。確定はVSに定義され てはいないが, Jinendrabuddhi によれば,「実在する対象との接触によって,まさしく これであって他のものではない,という確定が生ずる」のであって、実在する対象との接 触を成立の条件とする点に於いて、 確定は知覚と同性質のものと考えられる。VS, X, i, 3 は,かくて、疑惑・確定を夫々推理・知覚と同視しているのである。 Dignaga は、然し知覚が四要素の接触によって生じた知識と定義される限り,それは 確定によって生じた知識と同視し得ないことを指摘する。四要素の接触によって生じた知 識は,ただ対象をあるがままに直観するのみで,対象について思惟し判断するものではな い。此の事を Dignaga は感官の知覚を考察する際に明らかにしているが”), Prasastapada もまたそれを明説する)。之に反して、確定知は明らかに思惟に先行される。「此 れは牛であって水牛ではない、」という確定は、 確かに牛の知覚と同じく,実在する牛と の直接的接触によって生ぜられるが,そこには直観されたこれを牛の一般相に結びつける 思惟作用がふくまれているのである。 確定知のふくむ此の思惟作用の面を考慮の外に置いて、単に実在する対象との接触とい う面のみに於いてそれを取り上げ,感官と対象との接触によって生ぜられた知識と同一視 するのは不当である。 LBb) K 100a.3-5, V 196.4 (192.6-7). ct. J 54a.6-555.4 (61a.3-626. 4). | 感官と対象との接触が知識根拠であるという説に於いて,「接触」の語を,思惟に先 行される確定にまで] 拡大適用(atidesa) [すること]は決してない。 〔若し, Vaisesika の定説に従って,実体に内属する普遍等もすべて感官と接触する から、感官と対象との接触によって、普遍等に限定された実体の知覚即ち確定的知識も 生ぜられる,とするならば、コ感官と対象との接触が知識根拠であると主張する者の見 解に於いて,或る対象について,] 「これは何であるか,」とその限定要素を〕知ろう と思うとき、既に] 対象を全体的に把握していることになってしまう。(その際感官は, 実体とそれに内属する限定要素とを別々に捉えるのでなく、対象の] 全体と接触するか らである。 Page #5 -------------------------------------------------------------------------- ________________ VAISESIKA の知覚説に対する DIGNAGA の批判 (服部) 27 確定は思惟をふくむものでありながら,一面に於いて実在する対象との接触に条件づけ られているという理由で、「感官と対象との接触」という語を、確定にまで拡大適用するこ とが出来るとすれば,推理や疑惑も感官と対象との接触によって生じたものとなさなけれ ばならぬであろう。それらも,想起に伴われているという点を考慮の外に置けば、実在す る対象との接触の側面をもっているからである。 さて Vaisesika の定説によれば、 普遍,特殊,属性, 運動が実体に内属(samavāya) しているので,或る実体と接触する感官は, その実体に内属する普遍等にも同時に接触す ることになる。従って,此の接触によって生ぜられた知覚は,「此れは牛である,」「此れ は白い,」等の内容をもつ確定知であると考えられる。然しながら,感官と対象との接触 のみによって斯かる確定的知識が結果されるとすれば、未限定な対象そのものの純然たる 直観もなく,その直観されたものを或るものとして知ろうとする欲求もないことになる。 「対象の] 全体と接触する」 という語を説明して Jinendrabuddhi は,「対象は無部分 であるから、夫々の場合に応じて,五種の接触によって感官に接触しない部分は全く無いで」 と述べている。五種の接触とは、感官と (1)実体(例:瓶),(2)その実体に内属する属性(瓶 の色), (3)その属性に内属する普遍(色の普遍 rupatva) との接触,(4)感官と対象とが実 、体(耳感官=虚空)と属性(音=虚空の属性)なる場合の内属関係,(5)感官と内属関係に ある対象に内属する普遍(音の普遍 sabdatva) と感官との接触である。此の接触論に 基けば知覚は本質的に判断即ち確定をふくむことになるのである。然し判断に先立って対 象そのものの純然たる直観があることは Vaisesika も否定出来ない。従って後代になる と,知覚を無分別知覚 (nirvikalpaka-pratyaksa) と有分別知覚 (savikalpaka-p.)とに 区別するに至るが,此の区別は心理的なものであって, Dignaga の設けた知覚と判断と の論理的区別とは性格を異にするのである。 感官と対象との接触によって生ぜられた知識を知覚となす限り、確定知を知覚と同視す ることが出来ないにしても,我と統覚器官との接触を知覚の主要因となす説に於いては, 確定知を知覚と同性質のものと見做し得ると考えられるかも知れない。統覚機能をもつ器 官たる manas の作用には思惟がふくまれているからである。然し Dignaga は此の点 については詳論せず, 別の視点から此の説を批判するのである。 [C] K 100a.5-6, V 196.4-5(19a.7). cf. J 556.4-6 (626.4-7). | 我と統覚器官との接触が知識根拠である]という説に於いても,知覚過程に於いて は、我が統覚器官を,或は統覚器官が我を対象としており、そして結果されるのは外的存 在物の知覚であって、此の様に知覚過程と結果とに於いて]対象が別々なのであるから, 「[知識根拠は]甲なる対象に関して知識根拠であり,それによって生ぜられる結果は] 乙なる対象に関して結果である [という様な不合理極まる]ことはあり得〕ない,」と, [Nyaya 学派の知覚説を考察した個処で】 既に述べた「批判を,此の説に対しても適用 「することが出来る]。 知覚は,対象に関する明晰な知識という内容の面から捉えれば、知識作用の結果である が,対象を知る作用としてそれを捉えれば,知識根拠と見做される。斯くて、知識根拠と Page #6 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 28 インド学試論集1 結果とは,同一の知覚現象を異った側面から見た区別で,本来両者は別々のものではない というのが, Dignaga の見解であるが,彼は此の見解に基いて、知識根拠とそれによっ て生ぜられる結果とを別のものとなす Nyaya 学派の説を批判している。即ちNS, I, i, 4 に知覚が「確定性をもつ」(yyavasayatmaka) 知識であると定義されているので, Dignaga は此の語を取り上げて、若し知識根拠としての知覚が既に確定性をもつならば,そ れとは別の結果を新たに生ずる必要はないと定義の欠陥を指摘する。之に対して Nyaya 学派は,先ず知識根拠によって、対象の限定要素たる普遍等に関する確定性をもった知識 が得られ,次に此の限定要素によって限定された実体等の認識が生じたとき,それが結果 である,という答釈を用意する。此処に Vaisesika 批判に当って再説された Dignaga の語は、此の答釈に対して向けられたものである。知識根拠とそれによって生ぜられた結 果とが,夫くかかわる対象を異にするという此の見解は, khadira 樹を目がけて振り下 された斧が,結果としては palasa 樹を切断していると言うにも等しい,不合理極まりな いものであると、其の個処で Dignaga は述べているのである。) (未完) 附記 本稿は大倉山学院紀要に掲載を予定されていたが、同紀要の刊行が遅延しているの で、関係者の諒解を得て原稿の返却を受け、本誌に分載することとなった。他の拙論に 当初の予定を註記したので,ここに変更の事情を附記する次第である。 1) Pramanasamuccaya 第1章に於ける他学派批判については, 北川秀則「正理学沢 の現量説に対する陳那の批判」(名古屋大学文学部研究論集,哲学XXI), 拙稿「『論軌』 の知覚説に対するディグナーガの批判」(宗教研究 165号),同 'Dignaga's Criticism of the Samkhya Theory of Perception'(大阪府立大学紀要 Ser.C, vol.8), 同 'Dignaga's Criticism of the Mimamsaka Theory of Perception' (EIVE OF 究第9巻第2号)参照。なお、Vaisesika 批判の部分に引用されたVaisesika 学説は、 宮坂宥勝「集量論註・流に伝えるヴァーイシェーシカ学派の現量論」(密教文化第34号) の中に抄訳解説されている。筆者は此の論文に負うところありながら、見解を同じく し得の個処も多いので,本稿に於いて重複を敢て避けなかった。 2) Prasastapadabhasya (PBh), Chowkhamba ed., p. 552 ff. 3) [Ab] の解説参照。 4) 此の点についてはCD] の解説に詳論する。 5) K: Tshad-ma kun-las btus-paui hgrel-pa (Pramanasamuccayavstti), Kanakavarman 訳,北京版 影印本 Vol. 130, No.5702. V: ditto, Vasudhararaksita 訳,デルゲ版 東北目録 No. 4204, 北京版 影印本 Vol. 130, No. 5701. J: Jinendrabuddhi, Visalamalavati Pramanasamuccayatika, デルゲ版 東北目録 No. 4268, 北京版 影印本 Vol. 139, No. 5766. V, J は先にデルゲ版の葉数行数を示 し,その後に北京版のを括弧内に示す。Kārika の部分は此の外に Kk : Kanakavar Page #7 -------------------------------------------------------------------------- ________________ VAISESIKA の知覚説に対するDIGNAGA の批判 (服部) 29 man 訳,北京版 影印本 Vol.130, No.5700, Vk: Vasudhararaksita 訳, デルゲ版 東北目録 No. 4203 をも参照した。訳文は原則としてK に基き,V に従った部分は 註記した。またV, J を参照して K の語句を訂正した個処も多く、之等はその都度註 記した。 Dignaga の論述は極めて簡潔なので,主として J に基きつつ [ ]内に 説明語を補足した。Karika 部分の訳文には下線をほどこし、番号を附した。 6) K, V ともに hbrel pa hbah sig. J により,.. hgah sig と訂正。 7) K, Kk, J は 此処に yid (=manas) という語を置くが, V, VK は省く。 以下に 「四要素の接触」と言うから,前者がよい。 此処に引用されているのはVS, I, i, 18 であるが, Bibl. Ind. 本には atmendriyartha-sarinikarsa とあって, manas が欠 67113. VS, I, ii, 1: atmendriyartha-samnikarse jnanasya bhavo 'bhavas ca manaso lingam を参照すれば manas を補うのが至当と思われる。Nyayamanjari (NM)に於ける此の sutra の引用には manas が加えられている。cf. NM, Chowkhamba ed., p. 100, 11. 11-12: yad api kaiscit pratyaksa-laksanam uktam atmendriya-mano-'rtha-samnikarsad yad utpadyate tad anyad anumanadibhyah pratyaksam tad api... また Pratastapada も明らかに「四要素の接触」(catustayasamnikarsa) と述べている。cf. PBh, p. 553, 1.1, p. 554, 1.1. 8) K: gan grub pa pa. pa を一つ省く。 9) 此の読み方については以下の解説参照。 10) 註7)参照。 11) Vaisesikasutropaskara (VSU), Bibl. Ind. ed., p. 140. 12) Jui rab tu grub pa (=prasiddhi) と ses pa (=jñāna)とは異るものではない と言うことについて何も説明していない。cf. Nyayakosa, 13) Jinendrabuddhi の紹介する二種の解釈の外に, 次の様な解釈をほどこすことも出 来る。一VS, I, i, 18 に直接先行する 1, i, 15-17 には, 擬似的推理として,不成 (aprasiddha-asiddha), ** (asat = viruddha), 7 (samdigdha=anaikantika) を説いているので,I,, 18 の anyat という語は,此等擬似的推理とは別のもの,即 ち正しい推理を意味する と . cf. VSU, p. 161, 11. 14-15:atmendriya (-mano) ikarsat tavai jnanam utpadyate tac catmani lingam asiddha viruddhanaikantikebhyo'nyad anabhasamity arthah.然し擬似的推理の説明も 推理の考察の一環をなすと考えれば, anyat は, Jinendrabuddhi の挙げる第二の解 釈が示す様に、推理とは別のもの,即ち知覚ということになる。NM 6 VS, I, i, 18 に言及しつつ此の解釈に従っている。註7)参照。 14) VS, VI, i, 4-5: guna-karmasu samnikrstesu jnana-nispatter dravyam karanam. samanya-visesesu samanya-visesabhavat tata eva jnanam. 15) [G] 参照。 16) 同じ説は NS, NBA, I, i, 26 にも見られる。 17) cf. Frauwallner, Geschichte der indischen Philosophie, Bd. I, S. 17. Page #8 -------------------------------------------------------------------------- ________________ 30 インド 学試論集1 18) NS, I, i21-22 に, NS, I,,4 の知覚の定義が我と統覚器官の接触に言及してい ないのを不備となす反対論が取り上げられている。Vatsyayana は之を説明して、知識 を属性とする実体たる我が無ければ知識は生じ得ず,また統覚器官がはたらかなけれ ば二知の並起を許すことになる, と述べている。此の Nyaya 学派への反対論は,い まの第二説と同一ではないが,近い傾向にあると言えるであろう。 19) K, V ともに ses pa dag las grub pa ni... とあるが,las を省く。 . 20) Bibl. Ind. 版には VS, X, i, 3 は tayor (=samsaya-nirnayayor) nispattih pratyaksa-laingikabhyam とあり, VSU は疑惑・確定が知覚・推理によってあると いう意味に解しているが(Vivrti は tayoh を sukha-duhkhayoh とする), K によ れば此の sutra は訳文の如く解されるべきであり, J もまたK を支持する。 21) K: gtan la phebs pa la skyes pahi を V により... las... と訂正。 22) VS, I, ii, 17: samanya-pratyaksad visesapratyaksad visesa-smrtes ca samsayah. 23) Pramanasamuccaya, I, 5c-d: svasamvedyam anirdesyam rupam indriya gocarah.此の傷はMimamsa 批判の場合にも繰返されている。 拙稿 "Dignaga's Criticism of the Mimamsaka Theory of Perception' p. 714, n. 29) El. 24) PBh, p. 553, 1. 2: svarupalocana-matram (prayaksam). (cf. Randle, Indian Logic in the Early Schools, p. 108, n. 2) 1. 21 ff : tatra samanyavisesesu svarupalocana-matram pratyaksam pramanam... samanyavisesa-jnanotpattav, avibhaktam alocana-matram pratyaksam pramanam... なお,本稿CD] 項の解 説参照。 25) 此等五種の接触は順次 (1) samyoga (2) samyukta-samavaya (3) samyukta samaveta-samavaya (4) samavaya (5) samaveta-samavaya と言われる。之に,非 存在(abhava) を知覚する場合の (6) visesana-visesya-bhava を加えて,接触を六 すのが Nyaya, Vaisesika 両学派に共通する説で,現在知り得る範囲で最も古 くは Uddyotakara によって説かれている。cf, Nyayavarttika, Varanasi ed. p.31. Jinendrabuddhi は Nyaya 学派批判の個処でも感官と対象との接触を五種となして いるが(cf. J44a.1-2-349a.7-8),五種接触論がNvava, Vaisesika 学派の一部に あったのか, Jinendrabuddhi が (6) を省いたのかは明らかでない。 26) Dignaga は知覚を kalpanapodha と定義し (PS, I, 3c-d) manas の思性作用に 媒介された知識は知覚ではないと主張する。彼は知覚を分類する際に, manas による 知覚を挙げているが(PS, I, 6a-b), それは感官の知覚を知覚として自覚する作用,ま た苦・楽等の心理状態を自覚する作用を意味するのであって,これらの場合に於いて manas は思惟機能ではないのである。 27) cf. PS, K 99a.2-6, V 186.5 -19a.1 (18a. 6-186.1). 北川秀則 前掲論文 69-70 頁参照。